この記事はYouTubeチャンネル「山田五郎 オトナの教養講座」の内容をもとに、動画のポイントをわかりやすく解説していくものです。
第2回目のタイトルは
【「ひまわり」たくさん描いた悲しい理由…】
今回はゴッホがどういう人物だったのか、とてもわかりやすく語られています。
まだ見ていない方はぜひご覧になってください。
文字の方が理解しやすい方は、ぜひ最後までお付き合いください。
ひまわりをたくさん描いた理由

ひまわりはゴッホが南フランスのアルルという場所に移り住んでから描かれました。
ゴッホがアルルで描いた、花瓶に生けられた「ひまわり」の連作は全部で7点とされ、そのうち6点が現存しています。
最初に制作された作品のうち、実際のひまわりを見ながら描いたものがあり、その後、自作をもとにした複製も制作されました。







しかし、なぜゴッホは同じひまわりを何枚も描いたのでしょうか?
ゴッホの黄色い家

ゴッホはオランダ生まれの画家ですが、画商として先に成功していた弟のテオを頼ってパリへ行きます。そこでいろんな画家と出会ったゴッホは、次に南フランスのアルルに向かい、黄色い家を借りました(弟の資金で)。
その理由はパリにいる仲間を集め、画家による生活共同体を作るためでした。
なぜひまわり?

では、なぜひまわりなのでしょうか?
ひまわりは太陽の方角を向く植物です。山田さんはそこから、ひまわりを「常に理想を追いかける芸術家の象徴」として解説しています。
ゴッホは黄色い家に飾るため、複数のひまわりを描くことを計画していたそうです。
なぜアルルだったのか?
アルルという地を選んだのには、なにか理由があったのでしょうか?
山田さんはその理由を「間違った日本に憧れていたから」と話します。
オランダにいた頃のゴッホは、暗い色調の作品を多く描いていました。しかしパリで印象派や新印象派、日本の浮世絵などに触れ、その作品は次第に明るい色彩へと変化していきます。

特に日本美術への関心は強く、日本を明るい光にあふれた理想郷のように捉えていました。
そんな日本への憧れもあり、ゴッホはより強い光を求めて南フランスのアルルへ向かったとされています。
もちろん、ゴッホが思い描いていた日本は、実際の日本とはかなり異なるものだったのでしょう。
山田さんはそんなゴッホの思い込みの強さも含めて、アルルと日本を重ね合わせていたと解説しています。
仲間を誘うが…

ゴッホはパリにいる仲間たちをアルルへ誘います。しかし、なかなか仲間は集まりませんでした。
山田さんはその理由の一つとして、ゴッホ自身の人間関係の難しさを挙げています。
ゴッホは人への思い入れが非常に強く、「誰かの役に立ちたい」という気持ちも強い人物でした。一方で、その強すぎる思いが空回りし、周囲との関係がうまくいかなくなることもあったようです。
黄色い家での芸術家共同体も、ゴッホ自身が強く思い描いていた理想でした。しかし、その理想に共感して実際にアルルまで来てくれる画家は、なかなか現れませんでした。
ゴッホの性格
ゴッホは思い込みが激しい性格でした。加えて人の役に立ちたい想いが強く、よく空回りしていたといいます。(周囲と適切な距離でコミュニケーションができなかった)
女性を好きになれば想いが強すぎてストーカーのようになってしまったり、

貧しい農民を絵で救いたいと、農民をモデルにした時もありましたが、農民からすれば忙しいのに時間を取られ大変迷惑されました。
黄色い家に関してもそうです。
誰に頼まれたでもなく、勝手に生活共同体を作りたいと弟の資金で一軒家を借りたゴッホ。
パリの仲間たちからすれば、面倒くさい性格のゴッホと一緒に生活するなんて御免でした。
弟の力を借りて…

そんな兄を見かねた弟のテオは、知り合いの画家たちに声をかけます。そして最終的にアルルへやってきたのが、当時経済的に苦しい状況にあったゴーギャンでした。
こうして1888年10月23日、ゴッホとゴーギャンの共同生活が始まります。
しかし、性格も芸術に対する考え方も異なる2人の生活は、次第にうまくいかなくなっていきました。
そして約2か月後の12月23日、ゴッホが自らの左耳を傷つける、いわゆる「耳切り事件」が起こります。
この事件については現在でも不明な点が多く、さまざまな説があります。そしてこの事件を機に、ゴーギャンとの共同生活は幕を閉じました。
1人で寂しく…
耳切り事件後、病院へ入院したゴッホでしたが、退院すると再び黄色い家でひまわりを描いたといわれています。
それは寒い1月のことでした(6番目と7番目のひまわりは退院後に描いたものとされています)。


晩年のゴッホ
さらにゴッホを取り巻く環境も変化していきます。
親しくしていたルーラン一家がアルルを離れ、さらに弟のテオも結婚します。
ゴッホを経済的にも精神的にも支えてきたテオ。その弟が家庭を持つことは、ゴッホにとって自分とテオとの関係が変わってしまうのではないかという不安につながったとも考えられています。


その後もゴッホは精神的な不調に苦しみ、入退院を繰り返します。アルルでは住民からゴッホの存在を不安視する声も上がり、署名による嘆願が行われました。
その後ゴッホはアルルを離れ、1889年5月、自らの意思でサン=レミの療養院へ入院します。
そして1890年7月29日、37歳でその生涯を閉じました。
一般には自らを銃で撃ったことによる死と考えられていますが、その経緯については現在も議論があります。
芸術家共同体への夢の残り火
まとめ

ゴッホが何枚も描いた「ひまわり」。
その背景には、黄色い家に仲間を集め、芸術家たちと共同生活を送りたいというゴッホの夢がありました。
しかし実際にアルルへやってきたのはゴーギャンだけ。その共同生活もわずか2か月ほどで終わってしまいます。
それでもゴッホは、その後もひまわりを描きました。
そう考えて作品を見ると、あの鮮やかな黄色の中にも、少し違ったものが見えてくる気がします。
山田さんはゴッホのことを「どうにかしてやりたいけれど、どうにもできないタイプの人間」と評していました。
あなたはゴッホの「ひまわり」の話を聞いて、どのように感じましたか?
次回はムンクの「叫び」についてです。















→黄色い家
→人数分のひまわり
→誰も集まらなかった
→ゴーギャンだけ来るも…
→ルーラン夫妻の転勤
→弟テオの結婚