なんで落ちた穂を拾っているの?【落穂拾い】/山田五郎オトナの教養講座⑫

 

記事の要約

✓実は宗教画だった落穂拾い

歴史画家になりたかったミレー

✓でも人気が出たのは…

 

この記事は
山田五郎さんのYoutubeチャンネルである
「山田五郎オトナの教養講座」より、
動画の内容を文字に起こして
解説していくものです。

第12回目のタイトルは
【なんで落ちた穂を拾っているの?

今回はミレーの落穂拾いについてです。

まだ動画をみてない方は
是非ご覧になって下さい。

 

 

文字の方が理解しやすい方は
ぜひ最後までお付き合いください。



なぜ落ち穂を拾っているの?(1:03~)

 

落穂拾い

バルビゾン派の画家、
ミレーの代表作である「落穂拾い」

あなたは作品中央の女性たちが
なぜ落ちた穂を拾っているのか
知っていますか?

 

後方には麦の山と男性らしき人物も
見えます。

 

実は手前の女性たちは、
夫が病気で働けなかったり
未亡人で貧しい女性たちなのです。

そして奥の男性たちは麦を刈り取る際
貧しい人のためにわざと穂を落としており、
現在でもフランスの風習となっています。

 

起源は旧約聖書ルツ記の話です。

ルツと呼ばれる未亡人の女性が
古代パレスチナの貧しい人には落穂を拾う
権利があるという法律のもと、
一生懸命に落穂を拾っているとそこの地主の
目にかかり、結婚をするという内容です。

そこから貧しい人を救う、
キリスト教的な道徳になりました。

 

落穂拾い

ですのでミレーのこの作品は、
宗教画的なメッセージもあるのです。

バルビゾン派とは?(3:48~)

 

フォンテーヌブローの森の眺め
コロー「フォンテーヌブローの森の眺め」1830年

1830年頃から数人の画家が
パリの郊外にあるフォンティーヌブローの
森のはずれにあるバルビゾンという村に
住みつきます。

そこで主に風景画などを描いた画家たちを
バルビゾン派と呼んでいるのですが、
ミレーもその一員で農民画家として
よく知られています。

 

ジャガイモを食べる人々
ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」

あの有名なゴッホはミレーのような
農民画家になりたいと思い、
迷惑がられながらも農民の姿を
描いていたエピソードがあります。

サムネ

 

しかしここで山田さんは
「実はミレーは農民画家志望ではない」
と話されます。

そしてそこが今回の話の
ポイントでもあるようです。

ミレーが農民画家になった理由(5:15~)

 

ジャン=フランソワ・ミレー
ジャン=フランソワ・ミレー

ミレーはフランスのノルマンディ地方の
出身で、農家出身ではありましたが
土地を所有しており、小作農家では
ありませんでした。

つまりそこそこ裕福な家庭育ちでした。

ミレーは長男でしたが跡継ぎにはならず、
画家になるためパリの国立美術学校に
入学します。

そこでポール・ドラローシュから
絵を学びました。

 

レディ・ジェーン・グレイの処刑
レディ・ジェーン・グレイの処刑

ドラローシュは
レディ・ジェーン・グレイの処刑を
描いたことでも有名な画家です。

そして代表作を見てもわかるように、
彼は歴史画家でした。

そんなドラローシュから絵を学んだミレーは
自身も歴史画家になることを
望んでいました。

 

聖母を教育する聖アンナ
「聖母を教育する聖アンナ」1839‐1840年

しかしミレーは画家の登竜門である
ローマ賞に応募しますが落選。

その後間もなく美術学校を辞めます。

学校を辞めた後はお金を得るために、
肖像画家としての活動を開始します。

 

自画像
自画像

そして肖像画の次は裸婦画を
描いたりと、歴史画家になりたい
気持ちはあれど生活のために
違うジャンルの絵を描く日々が続きました。

ミレーがバルビゾン派の画家たちと
出会ったのもちょうどこの時期になります。

 

そして1848年、
その年のサロンでミレーの作品が
注目を浴びることになります。

 

箕をふるう人
「箕をふるう人」1847‐1848年

それがこの作品です。

従来のサロンでは厳格な歴史画などが
評価を得ていたのですが、
この年はフランス2月革命が起きて
労働者の時代に変わっていました。

加えての作中男性の帽子の赤、
衣服の白、ズボンの青が
フランスのトリコロールと呼応し、
非常に高い評価を得たのでした。

 

ジャン=フランソワ・ミレー

ミレーはこの年のサロンを機に
国から絵の注文を受けたりと、
農民画家として有名になります。

しかし本人からすれば
予想外の出来事でもありました。

あくまでミレーは歴史画家としての
活動を希望していたからです。

 

ナポレオン3世
ナポレオン3世

その後フランスはナポレオン3世のもと
第二帝政が始まり、再び保守的な美術が
好まれる時期に入ります。

(ミレーにとっては好都合です)

1853年のサロンにミレーは
次のような作品を出品しました。

 

刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)
刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)

旧約聖書ルツ記の内容を
そのまま描いた作品です。

そのまま表現しているので、
ジャンルとしては歴史画になります。

ミレーが描きたいものに近い作品ですが、
今度は「農民画家としてのミレー」を
支持する人々からの批判をうける
事態になってしまいます。

板挟みの結果…(11:55~)

 

落穂拾い

そんな板挟みの状況で
描いたのが今回の作品です。

ミレーは聖書の内容をそのまま
描くのではなく、聖書+現実の農民
合わせて描いたのでした。

 

自由の女神

ミレーの作品は当時のアメリカでも
人気を博し、農民画家としてのミレーの
人気は強まる一方でした。

そしてアメリカからの注文で
描いたのが次の作品です。

 

晩鐘
「晩鐘」1857‐59年

落穂拾いと同様、ミレーの
代表作ともいえる作品です。

教会の鐘がなり、
今日の仕事の終わりに祈りを
捧げる夫婦を描いています。

悲しい状況を描いた作品では
ないのですが、この絵を見て
怖がる人が多いと山田さんはいいます。

シュルレアリスムで有名な
サルバドール・ダリもこの晩鐘を
怖がった人物だそうです。

 

サルバドール・ダリ
サルバドール・ダリ

ダリは夫婦の足元にある籠に
「子供の死体がある」と
言っており、トラウマ的な
作品であったようです。

晩鐘の値段(15:13~)

 

晩鐘

この晩鐘はアメリカ人の注文で
描かれましたが、注文主は
引き取りにきませんでした。

1860年、ミレーは仕方なく
別のフランス人にこの絵を
1000フランで売却しました。

絵は持ち主を転々とし、
1872年にとある画商がこの絵を
売却した時には3万8000フラン
値が跳ね上がっていたそうです。

さらにミレーが亡くなった後の1889年、
オークションにこの絵がかかると
フランスとアメリカの競り合いで
値はますます跳ね上がり、
最終的にはフランスが55万3000フラン
落札しました。

ところが思わぬ予算にフランス議会が
購入を反対し、結局はアメリカの手に
わたることになります。

すると今度は1890年、
フランスの大富豪がアメリカから
絵を80万フランで買い戻しました。
(現在はオルセー美術館にあります)

 

このことからも、
宗教画家としての活動を希望していた
ミレーでしたが、やはり農民画家
としての人気の方が高かったといえます。

終盤に山田さんはミレーの教訓として
「人は自分が思った評価を得られるもの
ではない」と語っていました。

 

ミレーの教訓

自分が望むままの評価は得られない

まとめ

 

落穂拾い
まとめ
✓落穂拾いは旧約聖書ルツ記が題材

✓ミレーは歴史画家になりたかったが、農民画家としての人気が大きかった

✓晩鐘はアメリカ人が注文し、その後値が跳ね上がった作品

今回は農民画家としてのレッテルを
貼られたミレーのお話でした。

自分のやりたかったことと、
周囲が求めたもののギャップに
ミレーは苦しんだのか。

それとも一定の評価は得られたの
だからある程度満足していたのか。

どちらにせよ、
かなり面白いエピソードでした。

次回はセザンヌの作品についてです。