330年にコンスタンティヌス1世は
ローマの首都をビザンティウム
(現在のイスタンブール)に移しました。
その後392年にキリスト教は国教となり、
395年にはローマは東西に分かれて
分担統治が始まります。
今回は東ローマ帝国(ビザンティン帝国)
で発展した美術を解説していきます。
まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。






帝国が東西にわかれると、
西欧のカトリック、
東欧(ビザンティン)の東方正教会
という異なる文化圏を形成していきました。
✓前期ビザンティン
⇒5世紀末~843年
✓中期ビザンティン
⇒9世~12世紀
✓後期ビザンティン
⇒1261年~1453年
ビザンティン美術の特徴

ビザンティン美術にはかつての
ギリシャ・ローマの自然主義的な面影はなく、
平面的な様式へと向かいました。
なぜそのような様式になったかというと、
偶像崇拝の禁止を指摘されるように
なったからです。
偶像崇拝の禁止とは簡単にいうと、
神の姿を模倣して作ったものを
拝んではいけないということです。
アギア・ソフィア大聖堂

アギア・ソフィア大聖堂は
ビザンティン美術を代表する建築です。
この大聖堂には
ドーム式バシリカという
建築様式が採用されています。
初期キリスト美術の
バシリカ式とドーム式、
2つの様式を合わせたような
建築様式です。


この様式は首都とエーゲ海地域で栄えましたが、高度な建築技術を必要としたので
あまり普及はしませんでした。
モザイクによる聖堂装飾

ビザンティン美術ではモザイクと
よばれる、色石を砕いた欠片を壁に
埋め込んで描く技法が多く取り入れられた
のも特徴です。
↑のモザイクは
アギア・ソフィア大聖堂にあるものです。

イタリアのラヴェンナにある
サン・ヴィターレ聖堂は、
八角形の集中式プランと
豪華なモザイクによって、
ビザンティンの黄金時代を表現しています。
左右対称で平面的な様式からも
精神性や超越性を感じます。

皇帝ユスティニアヌス一世と侍臣たち

サン・ヴィターレ聖堂にあるモザイクです。
重要な人物は大きく中央に描き、
大きな目で前を見据えています。
動きを感じさせない様式からは
精神的な強さを表現しました。
この時代の絵の特徴を示す代表作です。
キリストのイコン

イコンとは宗教的な礼拝像のことです。
画像のイコンは6世紀後半に制作された
現存する最古のもの。
目に見えない神を形にする
イコンは後に聖像論争に発展しますが、
9世紀半ばに公認されます。
聖像論争

ビザンティン美術は地中海周辺に広く普及し、
壁画やイコンが多く描かれました。
文字が読めない信者は、
キリストの姿を目にすることで
信仰を深めることができたでしょう。
しかしキリスト教が母体とするユダヤ教は
偶像崇拝を禁止しており、
不可視な神を人間が形にするのは不可能である
という思想が根強く存在しました。
ギリシャの神々を彫刻などにして崇拝した
地中海の伝統と、偶像崇拝を禁止する
ユダヤ教の伝統とが相反しながらも
継承されたビザンティン美術は、
8世紀初頭に聖像をめぐる激しい論争と
なりました。
偶像破壊派と擁護派、
お互いにこのような意見があったそうです。


この論争は聖像破壊運動を勃発させ、
726年~843年までの約100年間、
聖像は禁止されました。
まとめ

✓ローマ帝国が東西で分裂した後、東ローマ帝国では東方正教会を主体としたビザンティン美術が栄えた
✓3次元的な表現は偶像崇拝に繋がるとされ、平面的な表現へと向かった
✓地中海とユダヤ教の相反する伝統を引き継いだビザンティン美術は聖像論争を巻き起こした
次回は初期中世美術を解説します。
✓偶像崇拝の禁止
✓平面的に描かれるようになる
✓偶像破壊運動にも発展した