16世紀に入るとイタリア美術の中心は
フィレンツェからローマへと移ります。
その地でレオナルド、ミケランジェロ、
ラファエロの3大巨匠が活躍しました。
まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。











✓プレ・ルネサンス
⇒13‐14世紀
✓初期ルネサンス
⇒15世紀
✓盛期ルネサンス
⇒1500~1530年
目次
盛期ルネサンス美術の特徴

ルネサンス発祥のフィレンツェは
15世紀後半にメディチ家の支配下に置かれ、
宮廷的都市文化の円熟期を迎えます。
メディチ家は銀行家や政治家として
台頭したフィレンツェの支配者のことで、
数々の芸術家を支援した人物です。

しかし、ドメニコ会修道士
サヴォナローラ(1452~1498)が
メディチ家の保護する異教徒的・快楽的な
風俗・政治の腐敗を糾弾しました。
さらに豪華王と呼ばれた
ロレンツォ・デ・メディチが死去し、
20年に及んだフィレンツェの
黄金時代は幕を下ろします。
その後、芸術の中心は
教皇庁のお膝元ローマへと移りました。
サンドロ・ボッティチェリ「春」

フィレンツェ黄金時代を代表する1人に
ボッティチェリ(1445~1510)がいます。
彼は古代以来途絶えていた
大型の神話画を復活させました。
「春」は豪華王ロレンツォの
又従弟の祝婚画として描かれたそうです。
しかしこの類の作品は
世紀末にサヴォナローラの
虚飾の焼却などで
破壊される対象となりました。


レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

芸術の中心がローマに移ると
他分野にわたる才能をもった
巨匠達が現れます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
(1452~1519)は多岐にわたり
超人的な才能を発揮した1人です。
最後の晩餐はミラノの
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
に描かれました。
遠近法の消失点をキリストの
右こめかみに設定し、
使途達を3人1組にまとめることで
人物の心の動揺を求心的にまとめた
構図に仕上げています。
盛期ルネサンスのわずか30年の間に
それまで職人と見なされた
画家や彫刻家、建築家の地位が
芸術家まで高められました。

モナ・リザ

世界で最も有名な美術作品と
言われているモナ・リザ。
個人を記念する肖像画は
ルネサンス期に再興されたジャンルですが、
そこには個人を特定できる特徴や
私物を描くのが一般的です。
しかしこの作品には
この女性が誰なのかを示す特徴が
見られません。
さらにダヴィンチはこの作品を
生涯手元に残したと言われています。
作品にはダヴィンチの手腕が光る
スフマートや空気遠近法が用いられており、
今なお多くの鑑賞者を引き付ける作品です。
ラファエロ「ベルヴェデーレの聖母」

3大巨匠の1人である
ラファエロ(1483~1520)は
17歳で画家として一人前の
仕事をこなす程の早熟でした。
芸術の都フィレンツェを訪れた
ラファエロはダヴィンチ、ミケランジェロの
2人の天才から多くを学びます。

ベルヴェデーレの聖母はダヴィンチの
聖アンナと聖母子の三角形構図の
影響を受けています。
ラファエロは他の芸術家の良い部分を見抜き、
吸収して融合させることのできる天才でした。

ブラマンテ「テンピエット」

ルネサンスの芸術復興は
建築の分野でも花開きます。
ドナト・ブラマンテ(1444~1514)は
初期キリスト時代に殉教地や
聖地のモニュメントに使われた
集中式プランを建物に採用しました。
聖ペテロの殉教地(ローマ)を
記念する建物に円形の小神殿を選択したのは、
古代建築に関心を寄せていた
ブラマンテならではの発想でした。

デル・サルト「アルピエの聖母」

デル・サルト(1486~1531)は
ローマでミケランジェロやラファエロが
活躍していた頃のフィレンツェの画家です。
そこではサヴォナローラの説教により
抑制されつつ格調高い
古典的絵画が発展しました。
デル・サルトの「アルピエの聖母」は
無駄を排除した背景に三角形構図を
なす作品です。色調・表情共に抑えられ、
たがいにコントラポストで彫刻のような
量感を感じさせます。

まとめ

✓豪華王ロレンツォの死やサヴォナローラによりフィレンツェの黄金時代は終焉を迎える
✓芸術の中心は教皇庁のお膝元ローマに移った
✓3大巨匠の活躍により画家や建築家の地位は職人から芸術家の域まで高められた
次回は盛期ルネサンスの後半、
ミケランジェロの美術を解説します。
✓芸術の中心はローマへ
✓3大巨匠が活躍
✓画家は芸術家の地位を確立