北方ルネサンスその②/ドイツルネサンスと宗教革命について【西洋美術史⑮】

サムネイル18

 

記事の要約

☑銅版画の登場

☑デューラーの活躍

☑宗教革命と宗教画


 

今回は北方ルネサンスその②、
ドイツでの美術的動向を解説します。
また、美術史を語るうえで欠かせない
宗教革命についてもふれていきます。

まずは作品の
画像を確認していきましょう。

奇跡の漁り 大天使ミカエル マクシミリアン一世の凱旋門 大使たち


15~16世紀のドイツ美術で
注目しておきたいのは銅版画です。
デューラーなど才能あふれる芸術家も
生まれました。

アルブレヒト・デューラー
アルブレヒト・デューラー
ハンス・ホルバイン
ハンス・ホルバイン


その他のルネサンス解説記事はコチラ

北方ルネサンス年表
〇15世紀(初期ネーデルラント派)
⇒ファン・エイク、ヨアヒム・パティニーetc…
〇15世紀(ドイツ)
⇒アルブレヒト・デューラーetc…
〇15世紀末~16世紀
⇒ボス、ブリューゲル(父)etc…



ドイツのルネサンス

 

ミュンヘン
ミュンヘン

ドイツはイタリアのように
古代彫刻などの遺産に恵まれておらず、
造形性を学ぶ機会があまりありませんでした。
その一方ドイツでは銅版画が発明され、
独自の美術が発展します。

また神学者であったマルティン・ルターが
巻き起こした宗教革命も、
ドイツでのルネサンスに大きな影響を与えます。

宗教革命に関しても後述します。

コンラート・ヴィッツの絵画

 

奇跡の漁り
「奇跡の漁り」(1444年)

ドイツの画家
コンラート・ヴィッツ(1400~1445)の
晩年の作品からみていきます。

それまでの絵画の風景は実際のものではなく、
理想化された風景を描くことがほとんどでした。
しかしヴィッツは絵画の風景に
実際の風景を描き込んだ最初期の1人いわれています。

また、風景の細密な感じは
ネーデルラントの影響を感じさせます。

マルティン・ショーンガヴァーの銅版画

 

大天使ミカエル
「大天使ミカエル」

ドイツ語圏の修道院では
14世紀の末頃から木版画が
多数作られていました。

1430~1440年に銅版画が発明されると、
テンペラや油彩による
絵画に匹敵する作品が生まれます。

マルティン・ショーンガヴァー(1450~1491)は
金銀細工師の仕事をしていましたが、
銅版画家としての手腕も発揮し、
銅版画技法に大きく貢献しました。

木版画と銅版画の違い

 

木版画
木版画

ここで簡単に木版画と銅版画が
どのように違うのか確認します。
(既に知っている方は飛ばして下さい)

木版画は見出し画像のように
彫刻刀で木版を彫って、
印刷することで作品を作ります。

↓版木の状態↓

木版画

↓印刷後↓

木版画印刷後

一方の銅版画は木版画と
真逆の作り方をします。

木版画が板の凸の部分に
顔料を付けて印刷したのに対し、
銅版画は凹の部分にインクを
盛って刷り上げます。

銅版画
銅版画

銅版画の方が
精密で克明な作品が仕上がることから、
銅版画が発明されると
木版画は衰退しました。

↓銅版画の作品例↓

1600年代の作家Ambrosius Hannemannの銅板
右が印刷後

アルブレヒト・デューラー

 

アルブレヒト・デューラー
自画像(1500年)

ドイツルネサンス期の芸術家で
押さえておきたいのが、
アルブレヒト・デューラー
(1471~1528)です。

彼はショーンガヴァーが作り上げた
銅版画技法を更に磨き、
陰影表現や細密描写を洗練させました。

また、絵画と違って銅版画は複製技術に
長けていたので宣伝手段として
大いに利用されました。

神聖ローマの皇帝マクシミリアン一世も
銅版画を自らの宣伝広告にとして、
デューラーに制作を依頼しました。

マクシミリアン一世の凱旋門
「マクシミリアン一世の凱旋門」
黙示録の四騎士
「黙示録の四騎士」(1497-1498年)
騎士と死と悪魔
「騎士と死と悪魔」(1513年)
メランコリア I
「メランコリア I」(1514年)

また、デューラーはヴェネチアに2度渡って
遠近法や人体比例論を研究すると共に、
イタリアでの芸術家の地位の高さに驚いたそうです。

そこでドイツ帰国後は、
ドイツの芸術家の地位向上を唱えました。

ハンス・ホルバイン「大使たち」

 

大使たち
「大使たち」(1533年)

ハンス・ホルバイン(子:1497~1543)は
肖像画で手腕を発揮した人物です。

宗教革命後、聖像破壊運動によって
宗教画の需要が減少しました。
その影響もありホルバインは
肖像画の制作を多く手掛けました。

画像の大使たちは肖像画でもあり、
寓意画でもあるとされています。

寓意画
抽象的で曖昧な概念を、具体的な物事に置き換える技法を寓意といい、その技法を使った絵画を寓意画といいます

この作品を右上から見ると、
2人の大使の足元にはドクロが現れます。
これは当時の
メメント・モリ(死を忘れることなかれ)
という戒めだと考えられています。

メメント・モリ
もともと古代では「今を楽しめ」という意味で使われていたが、キリスト教社会に入ると「現世での楽しみ・贅沢・手柄は空虚でむなしいものである」ことを強調し、来世に思いをはせる誘因となった

ハンス・ホルバイン
ハンス・ホルバイン

宗教革命とは?

 

キリスト教

ドイツで起きた宗教革命
美術に大きな影響を与えました。

そこでここからは宗教革命について
確認していきます。

なぜ宗教革命は起きたのか?

 

宗教革命

宗教革命はドイツのマルティン・ルター
ローマ教皇庁に対して異議を唱えたことで
始まりました。

異議のもとになったのが、
当時のローマ教皇がドイツで
贖宥状(しょくゆうじょう
販売したことです。

この贖宥状、簡単に言えば
お金払えば罪は許される
といったもの。

キリスト教では人はみんな
原罪(生まれた時から罪を抱えている)があり、
その罪を悔い改めることで
来世は救われると考えられていました。
また、当時のドイツはペストなどの
感染症や飢餓などの死が隣り合わせで、
頼れるのは神様だけという時代でもありました。

そんな不安定な情勢も相まって、
贖宥状はたくさん売れたそうです。

ルターが唱えた異議

 

マルティン・ルター
マルティン・ルター

ルターはもともと修道院で生活し、
神学を勉強していた人物でした。

そんなルターが唱えたのは
贖宥状のようなものは聖書に記述が
ないので、誤っている
ということでした。

ちなみに聖書には
「信仰の拠りどころは、
神の言葉を記した聖書だけ」
いうような記述があります。

ですのでルターは聖書だけが
信じるべきものであり、
聖書に書かれていない贖宥状は
間違っていると非難したのです。

宗教革命の結果

 

出典:ことくらべ

宗教革命後、
カトリック教会からプロテスタント
呼ばれるキリスト教の一派が
分裂する形となりました。

プロテスタントは偶像の崇拝を
原則禁止としたので、プロテスタントが
多数派を占める国(ドイツやオランダ、
スウェーデンやイギリスなど)では
宗教画の需要が減少しました。

このことは
国別の美術の発展に
大きな影響を及ぼす結果となりました。

まとめ

 

大使たち
☑ドイツで銅版画が発明されると、デューラーなど多才な芸術家が銅版画技術を磨いていった

☑ルターが宗教革命を起こした後、プロテスタントの国では宗教画の需要が減少した

☑ハンス・ホルバインなど肖像画を生業にする画家も登場した

次回はマニエリスムを解説します。