アングル「グランド・オダリスク」背中長すぎ?/ 山田五郎オトナの教養講座⑳

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理学療法士・対話型鑑賞ファシリテーター。 在宅医療に携わりながら、アートを通した自己理解と人間理解を発信しています。

 

記事の要約
  1. 滑らかな肌が大好きな画家
    →まるでマニエリスム
  2. こだわり続けた
    →批判に負けなかった
  3. 復讐した
    →地位を得てからの復讐

 

この記事はYoutubeチャンネル
「山田五郎オトナの教養講座」より、
内容を文字にして解説していくものです。

第20回目のタイトルは
【アングル「グランド・オダリスク」背中長すぎ?】

まだ動画をみてない方は
ぜひご覧になって下さい。

 

 

文字の方が理解しやすい方は
ぜひ最後までお付き合いください。


グランド・オダリスクの長すぎる背中

 

Grand Odalisque

今回のテーマはフランスの画家アングルの代表作「グランド・オダリスク」。描かれた女性の背中は、なぜこんなにも長いのか?というお話です。

今作は当時のサロンにも出品され、当時から「椎骨が2~3個多いじゃないか!」といった様な批判を受けていました。

2004年には3人のフランスの医師によって「アングルのグランド・オダリスクの多過ぎる椎骨について」という論文が発表され、椎骨は通常より5個分ほど長いとする分析が示されました。

 

加えて骨盤の長さも異常であり、背中のカーブも実際には不可能なことなどがわかりました。

この論文では、医師たちによる「なぜアングルはこのように描いたのか」という考察も示されており、女性性をもつ骨盤と無表情な顔から、肉体と精神の乖離をあらわしたのではないかという結論が出されたそうです。

背中を長ーく描いた訳

 

「泉」1856年

アングルはデッサンの鬼とも呼ばれた画家で、上手く描こうと思えば描ける人でした。つまり今作もあえて背中を長く描いています。

 

カロリーヌ・ミュラ

今作が描かれたのは1814年。ナポレオンの妹であるカロリーヌ・ミュラに依頼されて制作されました。一方この時期はナポレオン失脚の年でもあります。依頼されたはいいものの、引き渡しが困難となり、アングルは1819年のサロンに今作を出品しました。

今作以前にもミュラはアングルの絵を所有しており、そのタイトルは「ナポリの眠る女」。その対として注文されたのが今作です。ナポリの眠る女の現物は無くなっていますが、アングルが後から同じように描いた作品があります。

 

「奴隷のいるオダリスク」1842年

それが「奴隷のいるオダリスク」です。

山田さんはこの作品にも身体の捻りやへその位置など、おかしなところがたくさんあると話します。またグランド・オダリスクと共通している点として、身体のシワがないことが挙げられます。

身体を(無理に)捻っているのですから、本来ならもっと身体にシワが入るはずです。ところが2作品共にほぼシワがありません。

 

「浴女」1808年

こちらはグランド・オダリスクと同時期に描かれた作品。この作品にも身体にシワがほとんどなく、お尻の割れ目もあまり描かれていません。

以上のことから山田さんは、アングルについて「シワや割れ目が嫌いで、滑らかな肌が大好きな画家だったのではないか」と考察しています。

今作の背中が長いことも、滑らかな面積を増やすための策ではないかと。

そしてこの滑らかな肌を好む人の特徴として、あくまで個人的な見解であることを強調しながら「全体よりもディテールを好む人で、形より質感を大切にする人」と考察しています。

アングルの半生

 

Jacques-Louis David
ジャック・ルイ・ダヴィッド

子供の頃から絵の才能を認められていたアングルは17歳でパリへ行き、当時支持を得ていたジャック・ルイ・ダヴィッドの弟子になります。

 

Bonaparte crossing the Saint-Bernard Pass

ダヴィッドはナポレオンの絵を描いたことで有名な画家です。

その後アングルは19歳で国立美術学校へ入学。ローマ賞にも輝き、ローマへの美術留学を許可されました。

ところがこの頃のフランスは革命などが相次いでおり、財政難に見舞われていました。ローマ留学を先延ばしにされたアングルでしたが、彼はその間にサロンデビューを果たし、新たな領地に飾るためのナポレオン肖像画家にも選出されるなど、順風満帆な画家人生でした。

1806年。ローマ留学の目処が立ち、同じダヴィッドの弟子だった女性と婚約も果たしたアングル。彼はローマへ旅立つ前に、渾身の作品を描いて残していきました。それが「王座に座るナポレオン」です。

 

「王座に座るナポレオン」1806年

毛皮や宝石の質感、細かな描写が凄まじい作品で、アングルがイタリアへ出発した後にこの作品は発表されました。

ところが、この作品は酷く叩かれてしまいます。その理由の1つが、ディテールと質感にこだわり過ぎて、人物が全く生き生きしていないこと。そして2つ目が、古臭いと受け取られたことでした。

アングルの作品はフランドルのヤンファン・エイクの様な描き方だったので、「絵画を400年後戻りさせた」とも揶揄されました。

それらの批判に激怒したアングルは婚約を破棄し、18年間もイタリアに留まり続けました。そしてイタリアに居ながら母国のサロンへ出品し続け、その1つがグランド・オダリスクでした。

アングルからすれば、批判されても「そんなことはわかっている」といったところ。ですが彼は批判に屈することなく、こだわり続けたそうです。

アングルはマニエリスムの人?

 

ここで山田さんは、アングルはマニエリスムの人なんじゃないかと話します。

マニエリスムは西洋美術史でいうルネサンスの後にくる時代のこと。マニエラは様式・技法といった意味があり、ルネサンスの巨匠ダヴィンチやラファエロたちが生み出した技法を真似し、その技法を誇張した作品が多い時代です。マンネリの語源でもあります。

 

パルミジャニーノ「長い首の聖母」1535年

こちらはマニエリスムを代表する画家、パルミジャニーノの作品。身体の捻り方など、アングルのそれと近いものがあります。

 

allegory of love
ブロンズィーノ「愛の寓意」1540‐45年

次にブロンズィーノの作品。登場人物の滑らかな肌や捻りが似ています。これらから山田さんは、アングルは若い頃からマニエリスムのようなこだわりがあった画家ではなかろうかと話します。

1824年。批判を受け続けたアングルは、ラファエロに似せた作品を描いて本国へ送ります。

 

「ルイ13世の誓願」1824年

この作品はイタリア滞在中の18年間の中で、初めて評価を得た作品となりました。

そうして本国へ戻ってきたアングルでしたが、師であったダヴィッドはナポレオン失脚を機にベルギーに亡命し、そこで亡くなっていました。

ロマン主義が台頭してきたこの時代。アカデミー内の新古典主義を推す派から推薦を受けたアングルは、帰国後に急に重鎮となります。

アングルの復讐

 

アカデミー内での地位を手に入れたアングルはこともあろうに、それまで批判を受けてきたものと同じような作品をいくつも制作します。先に挙げた「奴隷のいるオダリスク」はこの時期に描かれたものです。

アカデミーの重鎮の作品ともなれば、誰も批判することができません。そうこうするうちにあれだけ批判を受けていたグランド・オダリスクもアングルの代表作、名画として扱われるようになりました。

 

Dominic Angle
ドミニク・アングル

山田さんは今回のアングルのエピソードから得られる教訓として、

  1. 一度ケチつくと取り返すのにものすごい時間がかかる
  2. 一度外に出ると出世しにくくなる
  3. 偉くなるまで自分の作風を続ければ勝ち

と話されていました。

まとめ

 

Grand Odalisque
まとめ

✓アングルはディテールや滑らかな肌にこだわりのある画家

✓こだわりが強過ぎて「絵画を400年後戻りさせた」とも揶揄されたが、批判に屈しなかった

✓地位を得てからは復讐するかのように、批判を受けたものに似た作品をいくつも発表した

次回はルソーのお話です。