初期キリスト美術の特徴や代表作を解説【西洋美術史④】

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記事の要約

迫害されていたキリスト教

間接的な表現を使った

✓国教になると聖堂建築が盛んになった

 

初期キリスト美術はローマ時代の中頃、
ローマ帝国が発展していく中で
密かに生まれました。

ローマ帝国は皇帝を崇拝する国家なので、
キリスト(神)だけを崇める
キリスト教を認めるわけにいきません。
なので当初、キリスト教は
迫害を受けました。

しかしその中でも信者たちは
密かに信仰心を厚くしていきます。

まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。

善き羊飼い バシリカ サンタ・プデンツィアーナ ドーム


ちなみに、現存する初期キリスト美術
はとても少ないです。
それは以下のような原因が挙げらます↓

  1. 迫害を受けていたから
  2. 信者の大半が貧困層だったから
  3. ユダヤ教由来の偶像崇拝思想が強かったから

そんなキリスト教でしたが、
313年にローマの国教として認められます。

公認後は聖堂建築が盛んになり、
美術作例が増えていきました。


美術史年表

初期キリスト美術の始まり
⇒2世紀末~
ローマ帝国東西分裂
⇒395年
ローマ東西の美術が確立しだす
⇒5世紀末頃
東西の美術が確立するまでを初期キリスト美術と定義してます

初期キリスト美術の特徴

 

地下墓地

ローマ帝国は皇帝を崇拝する国家でした。
一方でキリスト教はキリストこそが神であり、
皇帝を神とは認められない宗教です。

加えて人種など関係なく誰でも
信者になれることから、ローマ政府は
キリスト教を不安因子と見なします。

そうしてキリスト教は帝国から
迫害を受けることになりました。

そのため教徒達はカタコンベ(地下墓所)に
弾圧者たちの目をごまかすため、
間接的に絵を描きました。

 

善き羊飼い
善き羊飼い

画像の善き羊飼いは
カタコンベによく描かれたもので、
羊の信徒を導く羊飼いとしてのキリスト
と解釈されます。

キリスト教公認

 

コンスタンティヌス1世
コンスタンティヌス1世の頭像

313年、コンスタンティヌス1世
キリスト教を公認します。
キリスト教信者を弾圧するより
仲間にした方が、国が強くなると
考えたからでした。

この出来事は美術史のみならず、
ヨーロッパの歴史を語る上で
重要な意味をもちます。

当時最大の統治国家であるローマで
公認されたことは、宗教をヨーロッパ全土に
布教できた大きな要因です。

ちなみにこの頃の肖像彫刻は、
威厳や偉大さを表現するために
デフォルメ(誇張)されているのが
特徴です。

上画像の頭像は、
勇敢さを表現するために
目が大きくデフォルメされています。

聖堂建築

 

サンタ・コスタンツァ聖堂
サンタ・コスタンツァ聖堂

キリスト教が公認されると
聖堂建築が盛んになります。

最初期の聖堂建築は
多数の信徒が集まる典礼の場所として、
古代ローマの集会施設として用いられた
バシリカ式プランが採用されました。

バシリカ式プランとは、
下画像のような
3廊で長堂式の建築様式を指します。

 

バシリカ
バシリカ式プラン
バシリカ
バシリカ式内観例

 

一方、皇族の募廟(死者を祀る宗教施設)や
洗礼堂には集中式プランが使われました。

集中式プランとは、
円形や多角形を基本とする様式をさします。

 

集中式
集中式プラン
集中式
集中式内観例

アプシス

 

アプシス

キリスト教聖堂で、
最も重要な主題が描かれる場がアプシスです。

サンタ・プデンツィアーナ聖堂の
アプシスは現存する最古のアプシス装飾です。
中央で金色の衣を着たキリストが、
右手で祝福のポーズをとっています。

 

サンタ・プデンツィアーナ
サンタ・プデンツィアーナ聖堂のアプシス

ドーム

 

ドーム
「正教派洗礼堂ドーム装飾」450~460年

こちらはイタリアラヴェンナにある
集中式聖堂ドーム部分の装飾です。
キリストがヨハネから洗礼を受ける
場面が描かれています。

受洗者は頭上のキリストと同じように
水中に身体を沈めて俗世の生を捨て、
キリスト教徒となります。

まさに洗礼という再生と復活の儀式に
対応した装飾です。

まとめ

 

善き羊飼い
まとめ

✓キリスト教はキリストが絶対の神であり、ローマ教皇をも認めない宗教だったため、迫害を受けていた

✓初期キリスト美術は弾圧者をごまかすために間接的に絵を描いたことが特徴

✓キリスト教が公認されると聖堂建築が盛んになり、聖堂装飾の作例が増えていった

次回はビザンティン美術を解説します。



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