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「ひまわり」たくさん描いた悲しい理由…/山田五郎オトナの教養講座②

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記事の要約
  1. 芸術家共同体を作ろうとした
    →黄色い家
    →人数分のひまわり
  2. 面倒な性格のゴッホ
    →誰も集まらなかった
    →ゴーギャンだけ来るも…
  3. 精神的に不安定になるゴッホ
    →ルーラン夫妻の転勤
    →弟テオの結婚

 

この記事は
山田五郎さんのYoutubeチャンネルである
「山田五郎オトナの教養講座」より、
動画の内容を文字に起こして
解説していくものです。

第2回目のタイトルは
【「ひまわり」たくさん描いた悲しい理由…】

2回目はゴッホの「ひまわり」についてです。

今回もゴッホがどういう人物だったのか、
とてもわかりやすく語られています。

まだみてない方は
是非ご覧になって下さい。

 

 

文字の方が理解しやすい方は
ぜひ最後までお付き合いください。


ひまわりをたくさん描いた理由

 

vincent van gogh

現在、ゴッホが描いた
「ひまわり」は全部で7枚あるとされ、
うち6枚が現存しています。

ひまわりはゴッホが
南フランスのアルルという場所に
移り住んでから描かれました。

2枚は実際にひまわりをみて描いたもので、
残りはセルフコピーしたものです。
(1枚は個人蔵、もう1枚は消失したため
確認できない)

sunflower
最初に制作されたひまわり(個人蔵)
sunflower
2番目に制作されたもの(焼失した)
sunflower
3番目(実際にみて描いたもの)
sunflower
4番目(実際にみて描いたもの)
sunflower
5番目(セルフコピー)
sunflower
6番目(セルフコピー)
sunflower
7番目(セルフコピー)

しかしなぜゴッホは何枚も
ひまわりを描いたのでしょうか?

ゴッホの黄色い家

 

yellow house

ゴッホはオランダ生まれの画家ですが、
画商として先に成功していた
弟のテオを頼ってパリへ行きます。

そこでいろんな画家と出会ったゴッホは、
次に南フランスのアルルに向かい
黄色い家を借りました(弟の資金で)。

その理由はパリにいる仲間を集め、
画家による生活共同体を作るためでした。

ゴッホはその家の食堂に
ひまわりを飾るつもりでいたそうです。

なぜひまわり?

 

sunflower

ではなぜひまわりなんでしょうか?

ひまわりは太陽の方角を向く植物です。

そこから転じて、
常に理想を追いかける芸術家の象徴
とゴッホは捉えました。

ゴッホは家の食堂に、
人数分のひまわり
描くことを計画していたそうです。

なぜアルルだったのか?

 

アルルという地を選んだのには
なにか理由があったのでしょうか?

山田さんはその理由を
間違った日本に憧れていたから
と話します。

もともとオランダにいた頃のゴッホは、
暗い色調の絵を描いていました。

しかし日本美術、特に浮世絵の
明るい色彩に魅了されたゴッホは、
自身も明るい色の作品を
描くようになります。

 

Oiran
「おいらん」

そして日本に対し、
光あふれる大国という
イメージをもつようになりました。

ゴッホはそんな日本への憧れから、
もっと明るい地へ行きたい
思うようになり、
アルルを選んだとされています。

しかし南フランスのアルルといっても
緯度は北海道と同じくらいの場所です。

さほど明るい地でもなかったのですが、
ゴッホは偏った知識で日本を誤解しており、
思い込みも激しい性格から
アルル=日本であると譲らなかったそうです。

仲間を誘うが…

 

letter

そんなゴッホはパリにいる仲間たちに
アルルへの招待状を送りました。

しかし仲間たちは一向に
来る気配をみせません。

なぜなら仲間たちは
ゴッホの性格をよく知っていたからでした。

ゴッホの性格

 

先述しましたが、
ゴッホはまず思い込みが激しい性格
でした。

加えて人の役に立ちたい想いが強く
よく空回りしていたといいます。
(周囲と適切な距離で
コミュニケーションができなかった)

女性を好きになれば想いが強すぎて
ストーカーのようになってしまったり、

貧しい農民を絵で救いたいと、
農民をモデルに絵を描いていた時も
ありましたが、農民からすれば
忙しいのに時間を取られ大変迷惑されました。

 

people eating potatoes
オランダ時代に描いた絵

黄色い家に関してもそうです。

誰に頼まれたでもなく、
勝手に生活共同体を作りたいと
弟の資金で一軒家を借りたゴッホ。

パリの仲間たちからすれば、
面倒くさい性格のゴッホと一緒に
生活するなんて御免でした。

弟の力を借りて…

 

そんな兄をみかねた弟のテオは、
知り合いの画家達に頼み込みました。

するとその頃
お金がなく困っていたゴーギャンに、
アルルで制作した絵を全てテオの画商で
買い取るという条件付きで
アルルに行くことを承諾してもらいます。

そうして1888年の10月23日、
ゴッホはゴーギャンとの共同生活を
開始しました。

しかし色々と面倒なゴッホと、
これまたクセのあるゴーギャンの
生活が上手くいくはずがありませんでした。

2か月後である12月23日、
ゴッホは自分の左耳を切り落とす
通称「耳切り事件」を起こします。

(この耳切り事件は未だに謎が多いと
されています)

そしてこの事件を機に、
ゴーギャンとの共同生活は
幕を閉じました。

 

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1人で寂しく…

 

耳切り事件後、
病院へ入院したゴッホでしたが
退院すると再び黄色い家で
ひまわりを描いたといわれています。

それは寒い1月のことでした。

(6番目と7番目のひまわりは退院後に
描いたものとされています)

 

sunflower
6番目のひまわり
sunflower
7番目のひまわり

晩年のゴッホ

 

そんな傷心のゴッホに
更なる不運が襲います。

まず1つ目に
アルルで唯一優しくしてくれていた
ルーラン夫妻が転勤でいなくなったこと。

ゴッホは世話になったルーラン夫妻の
絵も多く描いていました。

 

Joseph Rulan
「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」1888年
「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」1889年

次に弟のテオが婚約したこと。
これにより弟からの資金援助が
得られなくなりました。

度重なる出来事に
精神不安定になったゴッホは
自傷行為で入退院を繰り返し、
周囲に迷惑をかけてしまいます。

最終的には
市民たちがゴッホを精神病院に
入れることを求め署名活動を行い、
ゴッホは自ら精神病院へ
入ることを決断しました。

そして1890年7月29日。

未だ謎を残していますが、
自殺というかたちで
37年の生涯に幕を下ろしました。

 

複数のひまわり

芸術家共同体への夢の残り火

まとめ

 

vincent van gogh
まとめ

✓芸術家共同体を作ろうとしたゴッホ

✓人数分のひまわりを描く予定だった

✓人間関係のトラブルにより
夢を果たせなかった

✓1人になってもひまわりを描いた

今回はなんとも切ないゴッホの
ひまわりにまつわる話でした。

山田さんはゴッホのことを
どうにかしてやりたいけれど、
どうにもできないタイプの人間
と評していました。

あなたはひまわりの話を聞いて
どのように感じましたか?

次回はムンクの叫びについてです。

 

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