この記事は
山田五郎さんのYoutubeチャンネルである
「山田五郎オトナの教養講座」より、
動画の内容を文字に起こして
解説していくものです。
第13回目のタイトルは
【セザンヌのリンゴはなぜ落ちない?】
今回はセザンヌについてです。
まだ動画をみてない方は
是非ご覧になって下さい。
文字の方が理解しやすい方は
ぜひ最後までお付き合いください。
セザンヌのリンゴはなぜ落ちない?
今回はポスト印象派の画家、
ポール・セザンヌの作品についてです。
早速ですがあなたは上の作品で
なにか気になるところはありませんか?
ここのリンゴ…なんか不自然というか
落ちてしまいそうに感じませんか?
名のある画家が
なぜこんな描き方をしたのか?
もしくはここにも
なにかメッセージ性があるのか?
それが今回のテーマです。
そして今回、山田さんは
最初に結論を言っています。
なぜこのリンゴが落ちないのか…
それは「絵」だからです。
これは決してふざけているのではなく、
ここに重要な意味が込められています。
セザンヌは現代絵画の父とも呼ばれる
非常に有名な画家の1人です。
そしてなぜセザンヌがそのように
呼ばれるようになったかというと、
「絵と現実は違う」というメッセージを
作品に込めたからです。
それまでの西洋絵画は
写実的に描くことが常識でした。
ダヴィンチで有名なルネサンス時代に
発見された遠近法もいわば
「リアルに描くための技法」です。
それまでの画家はそれらを用いて
聖書や神話など、実際に目にしていない
テーマさえもとにかくリアルに描きました。
セザンヌと同時期にいた印象派の画家も
タッチや表現方法は変わりましたが、
彼らなりに現実っぽく描いています。
ところがセザンヌは違いました。
セザンヌが作品に対して考えたことは
「絵はべつに絵として完成されれば良い」
ということでした。
セザンヌの思想の背景には
カメラの誕生があります。
19世紀に入り少しずつカメラの技術が
発展していくと、それまでの
リアルに描く技術の価値がぐんと
落ちてしまったのです。
ですので19世紀以降はまさに
アートの価値を再発見する時代に
突入したともいえるでしょう。
セザンヌの場合は
リアルに描く伝統からの脱却。
もっというと
絵は絵として成り立てばいい。
その思いを作品に込めたのです。
なぜそっくりに描くのをやめた?
ここで山田さんは
なぜセザンヌはリアルに描くことを
やめたのかという話をします。
その理由は…
下手だったからです(泣)
現代絵画の父とも呼べる人物に
まさかの言葉が飛び出してきました。
しかしどうもこれは事実のようです。
セザンヌは南フランスのプロヴァンス
という土地に生まれました。
父が銀行業を営んでいて裕福だった
セザンヌは名門中学に通い、
そこで後に小説家として有名になる
エミール・ゾラと知り合いになります。
セザンヌは中学の
デッサンコンクールで1等を獲り、
ゾラに画家になるよう勧められました。
それを真に受けたセザンヌは父親に
掛け合いますが反対され、
父の希望だった法学部に通い始めます。
そのころゾラは芸術の都パリに出ていて、
セザンヌへよく「パリに来い」と
手紙を出していたそうです。
セザンヌもパリヘ出て画家になりたい
想いが募っていきました。
そしてセザンヌは父親に
自身の絵の才能を認めてもらおうと
別荘の壁に絵を描きました。
それが上の作品です。
セザンヌが21歳の頃に描いたものですが、
当時の(今でも?)感覚でいうと下手です。
そして興味深いのが、
セザンヌは絵の右下にアングルと
サインをしてます。
アングルはセザンヌよりも前の
新古典主義と呼ばれる時代の画家です。
彼は古典的な絵画を描いており、
国立美術学校の院長にも就任するほど
フランス美術界のトップにいた人物です。
そんな人物のサインを描いたのには
「俺はアングルと同レベルの画家だ」と
主張するセザンヌの気持ちがあったと
山田さんは考えています。
そしてここにセザンヌの特徴が
いくつか込められているそうです。
その1つ目が
遠近法を描けない。
次に
物の質感が描けない。
そして3つ目に
根拠のない自己肯定感。
山田さんはこの3つが
生涯つきまとうセザンヌの特徴だと
いいます。
その後、父親の許しをもらった
セザンヌはパリへ行きます。
(結局親バカだった父…)
そこで国立美術学校を受けた
セザンヌでしたが当然落ちてしまいます。
自己肯定感の裏返しで凹みやすい性格でも
あったセザンヌはその後、父親のもとに
帰って銀行家として働くことにしました。
しかしゾラの励ましを受け
再度パリへ出向いたセザンヌは、
誰でも入ることができる絵描き塾に入り、
そこで印象派の画家たちと知り合います。
そして1874年には第1回印象派展の
立ち上げメンバーとして出品しました。
ところがセザンヌはそのメンバーの中でも
ずば抜けて下手くそでした。
他の印象派の画家たちは
当時としては風変わりな絵を描いて
いたものの、1度や2度はサロンで賞を
獲れるくらいの技術はもっていました。
特にエドガー・ドガなんかは何度も
サロンで賞を獲っています。
ところがセザンヌは生涯に1度も
サロンで賞を獲っていません。
このことはやはりセザンヌの絵が
下手だった裏付けといえるでしょう。
そんなセザンヌは印象派の中でも
少し浮いた存在で、第3回印象派展を最後に
出品をやめてしまいます。
故郷に帰ったセザンヌはパリと故郷を
行き来しながら絵を描く生活を始め、
次第にパリへ行くことも減っていきました。
その後父親が亡くなり、
遺産を手に入れたセザンヌは
生活に困らないけど売れない画家を続けます。
そんなある時、
セザンヌはあることを考えます。
それは、
「自分はどうやっても対象を
リアルに描くことができない。
ならば対象を自分が
描けるように変えてはどうか?」
というものでした。
自分を信じ続けた結果
セザンヌの有名な言葉に
このようなものがあります。
自然を球、円錐、円柱として捉えなさい
このことは、
自然を彼の技術でも描けるように
〇・△・□に単純化して
画面上で再構成することを指しています。
その思考を皮切りに
そもそもリアルに描かなくてもよいのでは?
絵として完成されていればよいのでは?
という考えに及びます。
絵の本質は構図と配色。
物の質感や遠近感は本質ではない。
それからセザンヌは対象を単純化し、
布や果物の質感などもほとんど同じように
描きました。
また遠近感に対しても、
普段わたしたちが見ている世界は
3次元的でしかも動いていることから、
色んな視点を画面上で再構成して
描くことを良しとしました。
山田さんはこれを
下手を逆手にとって物事を等価に描く
と表現しています。
すると時代がセザンヌに追いついてきます。
パリの画商で印象派などの作品を扱っていた
ヴォラールがセザンヌに連絡をとり、
彼の作品をみると評価してくれたのです。
パリで活躍していた頃のセザンヌの絵は
まったく評価されませんでしたが、
それから20年経過すると彼の絵の評価が
変わり始めたのです。
そして1895年、セザンヌは56歳で
初めての個展を開催します。
そこには後のナビ派を結成する
モーリス・ドニなどがきたそうです。
19世紀末の若い前衛芸術家集団
物の質感を区別しない、
遠近法も使わない新しい表現は
そこでも一定の評価を得ました。
1898年には2回目の個展開催、
そして1900年にはパリ万博へ
出品します。
セザンヌは1906年に肺炎のため
亡くなりましたが、翌年には
セザンヌの大回顧展が開催されました。
そしてその回顧展に出席した
ピカソやブラックがセザンヌの絵に
影響を受け、キュビスムを試み始めるのです。
このことが現代絵画の父と呼ばれる由縁です。
最後に山田さんは
セザンヌから学ぶ教訓について語りました。
1つは
諦めずに続けていれば
時代が追いつくこともあるということ。
そして2つ目に
出来ない事より出来る事を伸ばそう
ということです。
まとめ
✓セザンヌは絵が下手くそだった
✓遠近法や質感が表現できないからこそ、それらを表現しなくてもよい作品を追い求めた
✓ドニやピカソなど後世の画家に影響を与えて、現代絵画の父となった
いかがでしたでしょうか?
下手なりに試行錯誤した結果、
名声を得たセザンヌから学べることは
たくさんありそうですね。
次回はゴッホの耳切り事件についてです。
✓正直下手くそだった
✓下手だからこそ色々考えた
✓そして現代絵画の父になった