西洋美術史ではアカデミー、
アカデミックな美術という言葉を
よく見かけます。
アカデミーは一般的にフランスの
王立絵画彫刻アカデミーの
ことを指すのですが、
そこで指導される内容や作品は
一体どんなものだったのでしょうか?
この記事で詳しく解説します。
まずはアカデミックな作品画像を
確認していきましょう。
![Messengers of Agamemnon who came to Achilles](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/773px-Jean-Auguste-Dominique_Ingres_-_Achilles_Receiving_the_Ambassadors_of_Agamemnon_1801-1-300x232.jpg)
![Birth of Venus](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/640px-1863_Alexandre_Cabanel_-_The_Birth_of_Venus-1-300x174.jpg)
![Birth of Venus](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/510px-William-Adolphe_Bouguereau_1825-1905_-_The_Birth_of_Venus_1879-1-213x300.jpg)
![Wrath of Achilles](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/640px-Coypel_Charles-Antoine_-_Fury_of_Achilles_-_1737-1-300x198.jpg)
![Andromache's Lament](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/539px-Jacques-Louis_David-_Andromache_Mourning_Hector-1-225x300.jpg)
アカデミーとは?
![Louis XIV](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/507px-Louis_XIV_of_France-1-211x300.jpg)
フランスの王立絵画彫刻アカデミーは
1648年にルイ14世によって設立されました。
それまで、画家の正規ルートといえば
ほとんどが従弟制もしくはギルドと
呼ばれる画家・彫刻家組合に所属し、
下積みを経て独立するというものでした。
しかしこのギルドも16世紀中頃には
かなり規則が厳しくなっており、
「新参者は認めない」といった感じの
いわゆる閉鎖的な仕組みとなっていました。
![Accademia delle Arti del Disegno](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/540px-Palazzo_dellarte_dei_beccai_01-1-225x300.jpg)
一方、この頃のイタリアには既に
アカデミア・デル・ディセーニョなど
従弟制ではない、志願者が比較的自由に
芸術を学べる組織がありました。
となるとフランスの画家・彫刻家を目指す人は
「イタリアに行こう」となってしまうわけです。
![Charles Leblanc](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/567px-Le_brun-1-236x300.jpg)
この流れをまずいと感じたのが
ルイ14世の第一画家として活躍していた
シャルル・ル・ルブランです。
ルブランはイタリアに倣って、
フランスも芸術を学ぶ機関を作るべきだと
国務評定官のシャルモアに報告します。
これをキッカケにルイ14世が
王立絵画彫刻アカデミーを設立したのでした。
ちなみに旧来のギルドは
アカデミーに反発したそうですが、
さすがに相手が悪かったようで
王室御用達の画家は全てアカデミーに
所属する画家でなければならないなど、
アカデミーが絶対的有利な条件を
設けるなどして沈静化させたようです。
主なアカデミーの制度
![Ecole des Beaux Arts](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/640px-Palais_des_etudes_ensba_paris_003-1-300x225.jpg)
アカデミー制度の中心は以下の3つです。
- エコール・デ・ボザール
- コンクール
- サロン
![](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/640px-Ecole_des_beaux-arts_from_the_live-1-300x197.jpg)
まずはエコール・デ・ボザール。
フランス革命前は
- 絵画彫刻アカデミー
- 音楽アカデミー
- 建築アカデミー
の3つだったものが1819年に統合され、
国立美術学校となります。
ここで学生たちは徹底的に
アカデミックな教育を受けます。
アカデミックな教育については
後述します。
![Messengers of Agamemnon who came to Achilles](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/773px-Jean-Auguste-Dominique_Ingres_-_Achilles_Receiving_the_Ambassadors_of_Agamemnon_1801-1-300x232.jpg)
2つ目がコンクール(ローマ賞)。
学生のための美術コンペであり、
優勝者には奨学金やローマ留学の資格など
プロとしてのキャリアが約束されました。
![salon](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/Edouard_Dantan_Un_Coin_du_Salon_en_1880-1-300x224.jpg)
3つ目にサロン。
1667年にアカデミーで行われた
作品展が始まりだとされ、
当初はアカデミー会員のみで行われました。
フランス革命後はアカデミー会員の審査のもと
会員以外の画家にも開かれました(公募展)。
このサロンに出品されるだけでも
画家としての実力を認められた証となり、
いわば画家の登竜門的存在となります。
アカデミックな教育とは?
![](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/library-ge5abdb595_640-1-300x169.jpg)
では、アカデミーではどのような教育が
されていたのでしょか?
簡潔にすると以下のようになります↓
- とにかく模写
- 絵画のヒエラルキー
- 画家としての正規ルート
![sculpture](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/4k-g320c10163_640-1-300x176.jpg)
アカデミーでは絵画技術の習得法が
明確に決められていました。
その1つにデッサンがあり、
まず学生たちは古典彫刻の模写を
行い続けました。
古典彫刻の印刷物を見て模写
↓
デッサン提出、合格したら次へ
↓
古典彫刻の模型を見て模写
↓
デッサン提出、合格したら次へ
↓
ポーズをとったモデルを写生する
といった感じです。
ちなみにエコール・デ・ボザールでは
1863年になるまで絵の具を使った彩画は
教えられなかったそうです。
それだけ徹底して過去の芸術を模写し、
技術を吸収することが重要視されました。
![Nicolas Poussin](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2021/05/369px-Nicolas_Poussin_078-1-231x300.jpg)
また、アカデミーで模範とすべき画家は
ニコラ・プッサンとされました。
上流階級出身であるプッサンの
豊かな知識と教養、品性から作り出される
絵画が会員たちの理想として映ったからでした。
加えて、シャルル・ル・ルブランが
彼の弟子だったことも影響しているでしょう。
![Shepherds of Arcadia](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2021/05/640px-Nicolas_Poussin_-_Et_in_Arcadia_ego_deuxieme_version-1-300x214.jpg)
アカデミーでは絵画のヒエラルキー
が存在していました。
- 歴史画
- 肖像画
- 風俗画
- 風景画
- 静物画
といった具合です。
歴史画を頂点とするのは、
アカデミーが模範とするプッサンの
画家の題材は
高貴な事柄、たとえば合戦や
英雄的行為や宗教的テーマを
扱っていなくてはならない
とする信念やエリート思考が
影響しているといえます。
実際、プッサンが残した名作の
ほとんどが歴史画でした。
そして最後に重要なのが
画家としての正規ルートの教えです。
これに関しては直接的ではなく、
間接的、暗黙の教えといった感じです。
まず、ここまでのアカデミーの情報を
整理したいと思います。
- アカデミーでは古典作品や歴史画
が至高のものとして教えられる - ローマ大賞受賞やサロン展示は
画家として認められた証 - コンペやサロンを審査するのは
アカデミー会員 - 王室御用達の画家はアカデミー会員
かつ実力のある者でなければならない
つまり、
画家として成功したいなら
アカデミー会員になって
歴史画とか描きなさいよってことです。
王立のもとで定められたルールは
画家としての正規ルートを作り上げ、
それ以外は認めないという
これまた保守的なものになったのです。
アカデミーへの批判
![オルナンの埋葬](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/06/640px-Courbet_Un_enterrement_a_Ornans-1-300x140.jpg)
歴史画を至高とし、保守的なアカデミーに
最初の批判を行ったのが、
クールベなどの写実主義の画家です。
彼らはアカデミーが牛耳るサロンの審査
だけでなく、観念的なものも批判しました。
- 歴史画への批判
→現実との関係性が無視されている! - 理想化されて描かれている
→質感がなめらか過ぎる! - ヒエラルキーへの批判
→静物画や風景画がなんで下位なんだ!
写実主義の画家たちが目指したのは
目に見える世界を描くこと、
理想化せずに対象を描くことでした。
また、クールベは世界で最初に
個展を開いた画家として有名です。
このことは、後に誕生する印象派への
大きな架け橋ともなりました。
![Napoleon III](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/Napoleon_3o_1865-1-244x300.jpg)
また、ナポレオン3世は独自の芸術政策で
アカデミーと対立しました。
1863年のサロンは例年よりも審査が厳しく、
落選者が多かったことを背景に、
ナポレオン3世は落選者らの作品を集めて
「落選展」という展示を開催するよう
指示しました。
![lunch on the grass](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/06/609px-Edouard_Manet_-_Le_Dejeuner_sur_lherbe-1-300x236.jpg)
ちなみにこの落選展で発表された中に、
マネの有名な「草上の昼食」があります。
色彩論争
しばしばアカデミー内でも
論争が巻き起こることがありました。
それが色彩論争です。
最初のものは1671年で、
アカデミーの理想とする画家は
プッサンかルーベンスかという論争です。
![poet's inspiration](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/556px-LInspiration_du_poete_-_circa_1629_-_Nicolas_Poussin_-_Louvre_-_RF_1774-1-300x259.jpg)
プッサンの作品は素描、
いわゆる知的に描かれた線を
重視しているのに対し、
![Saint George and the Dragon](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/598px-Rubens_-_San_Jorge_y_el_Dragon_Museo_del_Prado_1605-249x300.jpg)
ルーベンスは感情に訴えかけるような
色彩を重視していました。
そこでアカデミー内でも
素描派のプッサンと
色彩派のルーベンスという
対立が生まれ、論争はしばらく続きます。
![ホメロス礼賛](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2021/07/628px-Jean_Auguste_Dominique_Ingres_Apotheosis_of_Homer_1827-1-300x229.jpg)
次に起こるのが19世紀初頭の
新古典主義対ロマン主義の論争です。
ここでも論点となったのが
新古典主義が描く線を重視するか、
ロマン主義が描く色彩を重視するか
というものでした。
![民衆を導く自由の女神](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/06/606px-Eugene_Delacroix_-_La_liberte_guidant_le_peuple-1-300x237.jpg)
この論争は
両者を折衷する形で終結します。
このように線か色彩かの論争は
アカデミー、西洋美術史で
よく出てくるトピックとなっています。
まとめ
![Birth of Venus](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/05/640px-1863_Alexandre_Cabanel_-_The_Birth_of_Venus-1-300x174.jpg)
✓イタリアに倣って、ルイ14世が王立絵画彫刻アカデミーを設立した
✓デッサンを重視し、歴史画を至高のジャンルとした
✓アカデミーで認められることが画家としての成功でもあった
✓時代に伴い、アカデミー以外で活躍する画家が出てきた
✓色彩論争はアカデミー、西洋美術史で頻出のトピック
いかがでしたでしょうか?
日本ではやや人気の低い
アカデミック絵画ですが、
実は印象派よりも長い歴史があります。
個人的に、権限が強くなると
保守的になったりするのは
現代でも起こる現象の1つかなとも
考えたりします。
最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。
→芸術家のイタリアへの流出を阻止
→デッサン+古典編重
→アカデミー会員に気に入られること