このシリーズでは1つの作品に隠された時代背景や解釈、メッセージ性を読み解いていきます。第19回目は「バテシバ」です。
絵画を通して得た知見があなたの心のビタミンになれば幸いです。
バテシバを解説

題名
水浴するバテシバ
制作者
レンブラント・ファン・レイン
制作年
1654年
美術史では
オランダ・バロック
寸法
142 cm × 142 cm
種類
キャンバスに油彩
所蔵
ルーヴル美術館
今作はオランダの画家、レンブラントによって描かれました。
バテシバとは旧約聖書に登場する美女のこと。物語はこのようになっています↓
初代イスラエル王サウルが他民族との戦いに明け暮れていた時代、羊飼いの少年ダビデは竪琴(たてごと)の腕を見込まれて、サウルに仕えるようになります。
そんなころ、最大の敵ペリシテ軍が攻めてきます。軍の中には3メートルを超える巨人ゴリアテがおり、イスラエル軍は半ば負けを覚悟しましたが、ダビデは勇敢にも投石器と石ひとつで敵に立ち向かい、一投のもとに殺してゴリアテの首を切りました。
この手柄によりダビデは将軍となり、サウルの娘を妻にし、ついには第二代イスラエル王となります。
その後もダビデは勝ち戦を続けて領土を拡大し、全イスラエルを統合してエルサレムを首都としました。
ある日、エルサレム宮殿のバルコニーから町を見下ろしたダビデは、木陰で水浴する美女に一目惚れします。さっそく身元を調べると、自分の忠実な家臣であり、三十勇士のひとりでもあったウリヤの妻バテシバだとわかりました。
ダビデにためらいはありません。ウリヤがちょうど戦地にいるのを幸い、バテシバを召し出して己のものにしたばかりでなく、彼女が妊娠したことを知るとウリヤを更に激戦の最前線へと送り込んで戦死させまてしまいます。
しかもその後にバテシバを妻に迎え入れました。
しかし、そうまでして得た子は生まれてすぐに死に、次いで他の自分の息子たちは王位をめぐって殺しあうなど、離反や陰謀が相次ぎ、ダビデの晩年は孤独と後悔に苛まれました。
ちなみに老いたダビデはバテシバが2度目に産んだ男児を後継者として定め、その子があのソロモンです。
欲望から始まり、欺き、そして一人の人間の死にまでつながっていく。旧約聖書のなかでもかなり重い物語です。
レンブラントが描いた「その瞬間」

バテシバは西洋美術で繰り返し描かれてきた題材です。
水浴びする美しい女性。それを遠くから眺めるダビデ王。そして王から遣わされた使者。こうした登場人物を配置すれば、聖書の物語を1枚の絵として説明できます。
しかしレンブラントは、かなり大胆なことをしました。ダビデ王を描かなかったのです。
画面に大きく描かれているのは、バテシバ。そして彼女が手にしている手紙です。
実は聖書には、ダビデがバテシバに手紙を送ったとは書かれていません。ダビデが使者を送って彼女を呼び寄せたことが記されています。つまり、この手紙は物語を表現するための絵画的な工夫と考えられます。
レンブラントは手紙を持たせることで、「王から呼び出されたバテシバ」という状況を作り出しました。ルーヴル美術館も、ダビデを画面から消したことで、見る者の注意がバテシバへ集中すると指摘しています。
美しい裸婦なのに、どこか重い
バテシバの身体には柔らかな光が当たっています。白い布、金色の装飾品、豊かな肉体。非常に美しい裸婦像です。
それなのに、不思議と官能的なだけの絵には見えません。
理由のひとつが、バテシバの表情です。視線を落とし、何かを考え込んでいる。手にはダビデ王からの手紙。足元では老女が彼女の身体を整えていますが、バテシバの意識はそこにはないようにも見えます。
身体はここにある。でも心は別の場所にある。そんな印象を受けます。
レンブラントは当初、バテシバの顔をもう少し上向きに描いていたことがX線調査によって分かっています。その後、現在のように頭を下げた姿へ変更しました。
わずかな顔の角度。でも、それによって絵の印象は大きく変わります。
バテシバに選択肢はあったのか

この作品を「夫がいるのに王の誘惑を受けた女性」とだけ見ると、大切な部分を見落としてしまいます。
相手はダビデ王です。現代の恋愛のように、対等な2人が出会ったわけではありません。一方は絶大な権力を持つ王。もう一方は、その王に仕える兵士の妻。
聖書本文はバテシバの心情を詳しく語ってはいません。そのため彼女が何を考え、どの程度自分の意思で行動したのかを断定することはできません。
だからこそ、レンブラントの絵が面白い。レンブラントは聖書に書かれていないバテシバの「心」を、絵のなかにつくり出しました。
王から呼ばれたことへの戸惑いなのか。夫への思いなのか。これから起こることへの不安なのか。
その答えは描かれていません。ただ、彼女が何かを考えていることだけは伝わってきます。
モデルはレンブラントの恋人?

バテシバのモデルについては、レンブラントと生活をともにしていたヘンドリッキエ・ストッフェルスだったと考えられることがあります。
ヘンドリッキエはレンブラントの家で働くようになり、後に彼との間に娘コルネリアをもうけた女性です。メトロポリタン美術館も、彼女がレンブラント作品のモデルを何度も務めたと考えられていることを紹介しています。
ただし、「バテシバ」のモデルがヘンドリッキエだったことが確実に証明されているわけではありません。ルーヴル美術館も「しばしばそう考えられている」という慎重な表現をしています。
重要なのは、モデルが誰だったのか以上に、レンブラントがその身体をどう描いたかでしょう。
理想化された完璧な身体ではありません。柔らかな腹部。肉付きのある脚。わずかな皮膚のたるみ。
そこには神話の女神のような非現実的な美しさではなく、生身の人間としての身体があります。
「事件」ではなく「人間」を描く

この作品には、殺人も不倫も描かれていません。
ダビデ王すらいません。描かれているのは、裸の女性が一通の手紙を持って座っているだけです。それでも、その静かな画面の向こうには、これから起こる大きな悲劇があります。
レンブラントは物語の最も劇的な瞬間ではなく、その少し前にある「人間の時間」を描きました。
何かが起ころうとしている。しかし、まだ起きてはいない。手紙を握りながら静かに座るバテシバは、その境界にいます。
人間はいつも、自分の意思だけで人生を決められるわけではありません。
立場。権力。他人の欲望。時代。自分ではどうにもできないものによって、人生の方向が変わってしまうことがあります。
「バテシバ」に描かれているのは、美しい裸婦だけではありません。大きな物語に巻き込まれる前の、一人の人間です。だからこそレンブラントは、物語の主人公であるダビデ王を描かなかったのかもしれません。
王の欲望ではなく、その欲望を向けられた側の沈黙。そこに目を向けることで、何百年も前の聖書の物語が、急に人間の物語として近づいてくる。
レンブラントの「バテシバ」が今も見る人を惹きつける理由は、その静けさのなかにあるのかもしれません。















→旧約聖書の一節
→選択肢はあったのか