この記事は
山田五郎さんのYoutubeチャンネルである
「山田五郎オトナの教養講座」より、
動画の内容を文字に起こして
解説していくものです。
第5回目のタイトルは
【日本人はなぜミュシャが好き?】
今回は日本でも馴染みのある
ミュシャについてです。
まだ動画をみてない方は
是非ご覧になって下さい。
文字の方が理解しやすい方は
ぜひ最後までお付き合いください。
目次
日本人はなぜミュシャが好き?
![Alphonse Mucha](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/580px-Alfons_Mucha_LOC_3c05828u-1-241x300.jpg)
日本でも人気のあるミュシャですが、
その理由について考えたことがありますか?
山田さんはその理由を
「ミュシャが日本を好きだったから」
と述べています。
ミュシャはチェコ出身の画家で、
当初はプラハの美術学校を
志望していましたが受からず、
ウィーンで舞台美術の仕事をしていました。
ところが劇場が火事で焼失。
失業したミュシャは25歳の時に
エゴン伯爵というパトロンに出会い
ミュンヘン美術院に入学・卒業後、
パリに出て本の挿絵の仕事を始めました。
挿絵の仕事はさほどお金にはならず、
画家としてなかなか芽が出ない状態が
続いていたミュシャ。
そうして1895年、
ミュシャが35歳の時に転機が訪れます。
それはあるポスター制作の依頼でした。
プラハ⇒ウィーン⇒ミュンヘン⇒パリ
サラ・ベルナールとの出会い
![Sarah Bernhardt](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/516px-Sarah_Bernhardt_by_Felix_Nadar_2-1-215x300.jpg)
ある日ミュシャはフランスの大女優
サラ・ベルナールから舞台宣伝の
ポスター制作を依頼されます。
![Gismonda](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/738px-Alfons_Mucha_-_1894_-_Gismonda-1-102x300.jpg)
↑の「ジスモンダ」はその時の作品です。
ベルナールはジスモンダを大変気に入り、
ミュシャに専属の画家として
働かないかと持ち掛けました。
ミュシャはこれを承諾し、
ベルナールと6年間の専属契約を結びます。
そしてこの6年間が
ミュシャの黄金時代となります。
JOBのポスター
![JOB cigarettes](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/545px-Mucha-job-1-227x300.jpg)
↑はミュシャが黄金時代に制作した
「JOB社の煙草」の宣伝ポスターです。
この作品にはミュシャの日本好きが
反映されています。
ミュシャがいた時代のウィーンやパリでは、
万国博覧会が開催され、
日本の美術が大ブームとなっていました。
そしてそんな日本美術から影響を受けた
ものにアール・ヌーヴォーがあります。
アール・ヌーヴォーとは19世紀末から
20世紀初頭にかけて起こったヨーロッパを
中心とした美術運動のことで、
以下の特徴があります。
- 平面的
- 曲線的
- 装飾的
- 動植物文様
これらの特徴は、
全て日本美術の特徴でもありました。
![Yoshiwara clock Boar time](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/Kunisada_yoshiwara-1-203x300.jpg)
当時、パリで美術商を営んでいた
ジークフリート・ビングという
人物がいました。
![Siegfried Bing](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/S._Bing_en_kimono-1-225x300.jpg)
彼は日本美術を扱う貿易商でもあり、
欧米諸国に日本美術を広めるため、
「芸術の日本」という雑誌を発行していました。
![art japan](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/Le_Japon_artistique_decembre_1889.jpg)
実はミュシャもこれを購入しており、
ミュシャの作品には雑誌から影響を受けたと
思われるものが数多くあります。
これがミュシャの作品が
日本人の感覚にウケる大きな理由です。
ちなみにアール・ヌーヴォーは
ジークフリートが営んでいた
日本美術の店名が由来となっています。
![](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/IMG_3917-300x168.jpg)
明治時代の日本では、
逆にミュシャの影響を受けた作品も
数多く生まれました。
アール・ヌーヴォーの終わり
![](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/20170403144747-186x300.png)
そんなアール・ヌーヴォーでしたが、
第1次世界大戦後には徐々に
廃れていきます。
代わりに流行ったのが
大量生産の時代に合った直線的で、
機能的なデザインを特徴とする
アール・デコと呼ばれるスタイルです。
アール・デコの流行と共に
ミュシャの黄金時代は終わりを告げ、
1910年にチェコへ帰国します。
帰国後のミュシャ
![home slavs](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/640px-Slovane_v_pravlasti_81x61m-1-300x216.jpg)
帰国後のミュシャは商業画家ではなく、
スラブ民族などを描く民族画家としての
活動を始めます。
それはミュシャが本心では
装飾的、商業的な絵ではなく
古典的な油絵を描きたかった
あらわれでした。
また、チェコの画家として
チェコの人民を救いたいという
気持ちのあらわれでもありました。
![Svantovit Festival on Ruyana Island](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/640px-Slavnost_svatovitova_na_rujane-1-300x211.jpg)
![Apotheosis of Slavic history](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/417px-Mucha_Apoteoza-1-261x300.jpg)
ところがミュシャは晩年、
民族的な作品が原因で
ナチス・ドイツに拘留され、
そのまま亡くなってしまいました。
ミュシャ、日本への影響
![](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/91kr7wnmWoL-300x201.jpg)
動画の終盤、
山田さんは1970年代の
アニメについて語り始めます。
実は日本で1970年代といえば
ベルサイユの薔薇など、
少女漫画の黄金時代でした。
そしてその作家さんたちも
ミュシャの影響を受けている
と山田さんはいいます。
それはミュシャの平面的で装飾的な特徴が
少女漫画とマッチしていたからでした。
またミュシャはチェコからパリへ出てきた
画家ということもあり、
彼の作品には「憧れのパリ」が
反映されていました。
その「憧れ」の部分も少女漫画と相性が
よかった1つの要素だといいます。
ミュシャが流行るのは景気の悪いとき?
続けて山田さんは、
ミュシャが流行るのは
景気の悪いときだといいます。
景気の良いときというのは
我慢すれば報われる時代でもあるので、
巨人の星などの熱血漫画系が流行り、
景気の悪いときというのは
我慢しても報われない時代なので、
憧れや優しさが伴う少女漫画や、
ミュシャのような作品が流行るそうです。
日本美術の要素を持つ作品だから
まとめ
![JOB cigarettes](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/07/545px-Mucha-job-1-227x300.jpg)
✓ミュシャは日本が好きだった
✓アール・ヌーヴォーの特徴は
平面的、曲線的、装飾的、動植物文様
✓ミュシャの作品は1970年代の
少女漫画とも相性が良かった
今回はミュシャと
アール・ヌーヴォーのお話でした。
後半は日本の漫画との関連性も語られ、
非常に興味深い内容でした。
次回はレンブラントの作品についてです。
→ミュシャが日本が好きだった
→平面的、曲線的、装飾的
→憧れの部分が〇