印象派とは19世紀の後半に
フランスで発した芸術運動、
もしくはその運動を推進した
グループのことをいいます。
印象派の特徴を簡潔に言うと
以下のものです。
- 近代都市パリの風俗画や風景画を描いた
- 屋外で絵を制作し、パレット上で混色しない筆触分割の技法を用いた
- 1874年から独自のグループ展を開催した
ここからは以上のことを踏まえながら
詳しく印象派をみていきたいと思います。
まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。
✓印象派
⇒1860年~
✓ポスト印象派
⇒1890年頃~
印象派の特徴
19世紀の半ば、
セーヌ県知事のオスマン男爵は
道路網や上下水道、街頭の整備など
パリの大改造を行いました。
そしてパリは近代都市へと
生まれ変わります。
同時期、シャルル・ガルニエによって
建造されたオペラ座は当時のパリを
代表する建築物です。
この場所は社交界の重要な舞台と
なりました。
このように賑やかで活気に満ちた
パリは人々の「見る」欲望をかきたて、
19世紀後半には観光記念写真が盛んに
撮られたようです。
マネの絵画
そんな近代化が進むパリで、
それまでの伝統をくつがえす絵画を
エドゥアール・マネ(1832~1883)が
発表しました。
それが「草上の昼食」です。
マネは近代都市の人々の生活を描いた
最初の画家といわれています。
マネは他にも1865年のサロンに
「オランピア」という作品を出展しています。
こちらの作品はヴィーナス像の形式を
借りながら高級娼婦の姿を描いています。
どちらもマネの代表作ですが
斬新なテーマに加え、
筆触がわかるほど絵具の塗りの粗さを
残す手法が使われており、
当時のアカデミーの常識を大きく
逸脱するものでした。
当然サロンでは非難を浴びることに
なったマネですが、彼の新しい芸術家としての
あり方は後の印象派の世代を準備する
ことになるのでした。
サロンで非難を浴びたマネは、写実主義のクールベに続き、世界で2番目に個展を開催しました
印象派展
マネのスキャンダルから少し経った
1874年、サロンへの挑戦を続けるも
なかなか認められない画家達がいました。
それがモネやドガ、ルノワールらを
中心とした画家達です。
彼らもまたアカデミーの推奨する歴史画や
神話画を描くよりも、近代パリの風景などを
独自の技法で描き続けていました。
そこで彼らは1874年に自分たちで
会場を借りて独自のグループ展を開催します。
クロード・モネ(1840~1926)の
「印象・日の出」はグループ展の第1回に
出展された作品です。
この作品には大胆な色彩と平面的な筆致による
筆触分割が顕著にみられます。
色を混ぜ合わせるのではなく、一つ一つの筆触が隣り合うように配置する、印象派の画家達が用いた技法
「風景ではなく印象しか描かれていない」
と軽蔑の念と悪意をこめて評し、
グループ展のことを「印象主義の展覧会」
と呼びました。
そしてこの命名が後に定着し、
「印象派」という言葉が生まれたのでした。
エドガー・ドガの絵画
モネと同時代の画家で、
歌手や舞台裏の踊り子を好んで
描いた画家もいました。
エドガー・ドガ(1834~1917)です。
銀行家の裕福な家庭に生まれ、
オペラ座の定期会員であったドガは、
楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが
許されていました。
印象派の他の画家達が
屋外の自然の光の下で制作を
行っていたのに対し、
ドガの関心は常に都市生活と
その中の人々にありました。
ジャポニズム
1851年にロンドンで始まった
万国博覧会は、その後半世紀の間に
5回にわたってパリでも開催されました。
そこでは日本美術も出展され、
ヨーロッパ美術に多大な影響を
もたらしました。
なかでも遠近法にとらわれない
浮世絵などは、画家達にとって
大きな発見を与えたそうです。
印象派の画家達の作品にも、
日本の影響を受けた作品が数多く
存在しています。
このような19世紀の後半からヨーロッパで
流行した日本趣味のことをジャポニズムと
よんでいます。
まとめ
✓マネの作品や活動は印象派の画家達に影響を与えた
✓印象派の特徴は筆触分割という技法に加え、グループ展を行ったこと
✓モネらが行ったグループ展の酷評がもとで「印象派」という言葉が生まれた
✓万国博覧会を機に日本の美術がヨーロッパでブームとなった
次回はポスト印象派を解説します。
✓マネが印象派世代の到来を準備した
✓グループ展を行った印象派
✓筆触分割という技法を使った