このシリーズでは1つの作品に
隠された時代背景や解釈、
メッセージ性を読み解いていきます。
第12回目はニコラ・プッサンの
「アルカディアの牧人たち」です。
絵画を通して得た知見が
あなたの心のビタミンになれば
幸いです。
アルカディアの牧人たちを解説
題名
アルカディアの牧人たち
制作者
ニコラ・プッサン
制作年
1638‐1640年
美術史では
フランス・バロック
寸法
85cm×121cm
種類
油彩
所蔵
ルーヴル美術館
今作は17世紀フランスを代表する画家、
ニコラ・プッサンが制作したものです。
タイトルにあるアルカディアとは
ギリシャ南部にある地名のことで、
古来より牧歌的理想郷とされてきました。
実際は険しい山岳部であり、
周囲の高山や峡谷によって
他と隔絶されている場所です。
この地にはパンが住んでいるとされ、
崇拝地でもありました。
パンとは自然神であり、
太陽光線を表す角と
大地への密接さ表す山羊の脚をもつ
男性として描かれます。
(時代によって美青年として描かれたり
下品な山羊として描かれたり、
様々なバリエーションがあります)
パンがいるアルカディアは
ニンフや狩人、男女の羊飼いが
現世の憂いを知らずに純朴に
生活していると信じられていました。
またそれは都会に住む人々が
田舎の厳しさを知らずに、
その風景やイメージだけで
勝手に憧れているものでもありました。
アルカディアにもわたしはいる
17世紀のイタリアには
アルカディアから次のような
ラテン語成句が生まれました。
Et in Arcadia ego
(アルカディアにもわたしはいる)
わたしとは死神のこと。
つまりアルカディアにも
死は存在しているという意味です。
イタリアの画家グエルチーノは
その成句をテーマに以下の作品を
描きました。
アルカディアに住む2人の羊飼いが
死のシンボルである頭蓋骨を発見して
ショックを受けている場面。
グエルチーノの作品は
テーマがわかりやすいです。
プッサンの作品
今作をプッサンが描いたのは
グエルチーノが描いた約20年後。
わかりやすいグエルチーノ作に対して
プッサンのそれは非常に難解です。
場面は羊飼いたちが石棺を発見したところ。
左手前にいる髭を生やした男性は
石棺に刻まれた成句を読んでおり、
後ろの男性はそれを聞いています。
ちなみに17世紀頃までは
黙読という概念がなく、
文字を読むのは専ら音読だったそうです。
作品右奥にいる男性は横の女性に対し
「これを見て下さい」と言うように
石棺を指さしています。
女性はそんな男性を
落ち着かせるかのように
背中に手を置いています。
そしてこの女性のみ
様々な憶測が飛んでいます。
アルカディアにいる人間は
羊飼いだけと考えられてきたので
女性も含めた4人が羊飼いなのか。
しかし女性だけ羊飼いの象徴である
杖を持っていませんし、
他の人より明らかに上等な服を着ています。
そのことから女司祭とする説や
「受け入れるべき運命」を示す擬人像
とする説などが出てきました。
またグエルチーノが
頭蓋骨を用いたのに対し
プッサンは石棺を使って
テーマを表現しました。
そのことは
「アルカディアにもわたしはいる」
のわたしを死神ではなく、
石棺の下で眠る死者を指して
「わたしもまたアルカディアにありき」
といった解釈も生みました。
ニコラ・プッサン
プッサンは17世紀フランス
最大の画家と評価されており、
フランス王立アカデミーの
規範ともされている人物です。
古典彫刻のような人体表現や
安定的構図、倫理性や権威性など
彼の生み出す作風が
一部のフランス的絶対権力者の
好みだったといえます。
事実プッサンは
絵画は知的構図の中に道徳的
寓意を表現すべきもの
と語っており、
深い学識に裏打ちされた
古典的理想美を追求しました。
ただ実際のところ、
生前にはあまり人気がなかったプッサン。
大多数の王侯貴族や教会から
人気があったのはルーベンスのような
派手で華やかな作品だったからです。
怖い絵シリーズの著者、
中野京子さんは両者のことを
以下のように表現しています。
いわばプッサンは国産の純文学ないし
難解な芸術映画であり、
ルーベンスは世界規模の大衆文学ないし
ハリウッド映画といえる。
メッセージ性
ここでもう一度
アルカディアの牧人たちを
見てみましょう。
1枚の絵画を読み解くのに
深い教養や学問を必要とし、
より高尚なものとしたかったプッサン。
彼を厚く支持する人もいましたが、
大衆にウケる作品とは
言えなかったかもしれません。
まさに純文学。
現代にも似たケースが散見していますね。
まとめ
✓理想郷にも死は存在している
というのがテーマ
✓プッサンは深い学識に裏打ちされた
古典的作品が得意だった
✓一部の支持者から人気があったが
大衆的にウケる作風ではなかった
プッサンは17世紀フランス
最大の画家と評価される一方で
人生の大半をイタリアで過ごしました。
46歳の時にルーブル宮の
大画廊装飾の仕事で
フランスに一時帰国しますが
フランス宮廷内の嫉妬や陰謀など
渦巻く人間関係に疲弊して
これ以上ここにいたら、
彼らと同じく私まで駄馬と
なってしまいます。
と友人に手紙を書いて
2年たらずでローマへ帰ります。
フランス王立アカデミーの
規範ともなったプッサンですが、
規範は人物ではなく
作品の方だったのかもしれません。
最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。
→自然神パンのいる崇拝地
→都会人からは理想郷とされていた
→メメント・モリ
→高尚な絵画が得意
→大衆にはウケない作品