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ロマン主義の特徴や代表作を解説【西洋美術史㉔】

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記事の要約

見たままの風景画

✓歴史より今をテーマにした

 

新古典主義がナポレオンの
敗北と共に衰退してきた頃、
自然の神秘的な光景などに興味を持ち、
より自由な表現を目指した人々が
現れました。

これをロマン主義と呼び、
19世紀の芸術の大きな流れと
なっていきます。

まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。

悪夢 乾草車 雨、蒸気、速度 グレート・ウェスタン鉄道 氷の海 メデューズ号の筏 サルダナパールの死

フュースリ
ヨハン・ハインリッヒ・フュースリ
コンスタブル
ジョン・コンスタブル
ターナー
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
テオドール・ジェリコー
テオドール・ジェリコー
ウジェーヌ・ドラクロワ
ウジェーヌ・ドラクロワ


美術史年表

ロココ美術
⇒1730年頃~
✓新古典主義
⇒18世紀中頃~19世紀初頭
✓ロマン主義
⇒18世紀後半~19世紀中頃



ロマン主義の特徴

 

ダンテの小舟
ドラクロワ「ダンテの小舟」

新古典主義では理性や合理性が重視され、
明確な輪郭線や対称性、古代彫刻のような
人体表現が特徴でした。

ロマン主義は対照的に
道徳よりも感情表現を重視した
作品が制作されていきます。

簡単にロマン主義の特徴をいうと

  1. 今のこと(時事ネタ)をテーマにする
    →フランスのジェリコーやドラクロワ
  2. 見たまんまの風景画を制作
    →イギリスやドイツ
  3. 線よりも色彩を重視
    →筆のタッチを残して動きを表現

となります。

ここからは国別にロマン主義の
特徴をみていきましょう。

イギリスでのロマン主義

 

カンタベリー大聖堂

ロマン主義は新古典主義が支配する
フランスよりもイギリスやドイツなどで
はやく出現しました。

まずはスイス生まれの
ヨハン・ハインリッヒ・フュースリ
(1741~1825)の「悪夢」という
作品からご紹介します。

 

悪夢
「悪夢」1781年

悪い夢を見ている女性の上に乗った悪魔や
中世の伝説に登場する怪物などが
描かれています。

これまでの作品とは異なり
幻想的で想像力に富んだ作品といえます。

 

フュースリ
ヨハン・ハインリッヒ・フュースリ

風景画の成立

 

ミノタウルス号の難破
ターナー「ミノタウルス号の難破」

フランスに先立ちイギリスでは
風景画も黄金時代を迎えます。

これまでの歴史では
見たままの自然だけを描くことはなく、
自然のままの風景画はかなり革新的でした。

それまでの風景画

神話や物語の背景にふさわしく理想化された風景を描くのが普通だった

ジョン・コンスタブル(1776~1837)や
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
(1775~1851)は風景画の代表的画家です。

 

乾草車
「乾草車」1821年

コンスタブルはありのままの
自然に忠実であろうとし、
穏やかな自然と人間の営みが融合した
叙情豊かな風景画を制作しました。

 

雨、蒸気、速度 グレート・ウェスタン鉄道
「グレート・ウェスタン鉄道」1844年

ターナーはクロード・ロランのような
理想的風景画などに才能を示しましたが、
後年は蒸気船や機関車など、
発展を遂げる近代風景にも目を向けました。

 

コンスタブル
コンスタブル
ターナー
ウィリアム・ターナー

ドイツでのロマン主義

 

ミュンヘン

ドイツでもロマン主義者たちによる
風景画制作が盛んになりました。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
(1774~1840)は山上から見下ろした
雲海など広大な風景を好んで描きました。

 

氷の海
「氷の海」1823‐1824年

彼は自然の中に超越的なものを見いだし、
静謐せいひつな風景世界を創造しました。

 

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ

フランスでのロマン主義

 

フランスのロマン主義は
テオドール・ジェリコー(1791~1824)と
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798~1863)に
代表されます。

アングルなどに代表される
新古典主義が幅を利かせるなか、
まずはジェリコーが海難事件を描いた
「メデューズ号の筏」でフランス画壇に
議論を巻き起こしました。

 

メデューズ号の筏
「メデューズ号の筏」1818‐1819年

この絵は実際に起こった
フランス海軍の難破事件を描いたもの。

147人が漂流し、13日後に救出されたのは
わずか15人という国際的スキャンダルと
なった事件です。

ジェリコーはこの絵を依頼を受けてではなく
自主的に制作し、それが世間の関心を
大いに呼んだのでした。

死に直面した極限状態を描いたこの作品は、
定式化した新古典主義の美術に
真っ向から対立するものでもありました。

 

テオドール・ジェリコー
テオドール・ジェリコー

ドラクロワとアングルの対決

 

民衆を導く自由の女神
ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」1830年

そんなジェリコーの影響を受けた
ドラクロワは1824年と27年のサロンで
アングルと対決し、ロマン主義の画家として
名を世に知らしめました。

なぜ丸出し?「民衆を導く自由の女神」

 

新古典主義は理性で捉えた
「線」を絶対視するものでした。

それに対してロマン主義は
個人の感覚を直接的に反映する
「色彩」を重視します。

この美学的対立はフランス画壇を
2分する論争へと発展させました。

 

サルダナパールの死
「サルダナパールの死」1827年

ドラクロワが1827年に出品した
「サルダナパールの死」
模範的な古典様式であるアングルの
「ホメロス礼讃」と比較されました。

 

ホメロス礼賛
「ホメロス礼賛」1827年

結果的にドラクロワは
国立美術学校に入会を許可されるまでに
なりますが、新古典主義のアングルは
「私はこの愚かな世紀と決別したい」と
漏らしていたようです。

 

ウジェーヌ・ドラクロワ
ウジェーヌ・ドラクロワ

まとめ

 

民衆を導く自由の女神
まとめ

✓ロマン主義の風景画は見たままの自然の風景をメインに描いたことで革新的だった

✓ロマン主義は今(時事ネタ)をテーマにしたり筆のタッチを残し、色彩を重視したのが特徴

✓フランス画壇でロマン主義のドラクロワ新古典主義のアングルの争いがあった

次回は写実主義の美術を解説します。

 

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