16世紀に入るとイタリア美術の中心は
フィレンツェからローマへと移ります。
その地では
- レオナルド・ダ・ヴィンチ
- ミケランジェロ
- ラファエロ・サンティ
の3大巨匠が活躍しました。
美術史ではこの3人が活躍した時代を
盛期ルネサンスと呼びます。
まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。
目次
盛期ルネサンスの背景
メディチ家の台頭も影響し、
フィレンツェから始まったルネサンス。
それから芸術の舞台はローマへと移ります。
ローマへ移った背景には
以下の理由があげられます。
- システィーナ礼拝堂の装飾事業
→1481年 - サヴォナローラの院長就任
→1490年 - 豪華王ロレンツォの死去
→1492年 - イタリア戦争勃発
→1494年
順に解説していきます。
システィーナ礼拝堂の装飾事業
教皇庁のローマは15世紀から、
キリスト教世界の中心としてふさわしい
都市の再整備を進めていきます。
1481年のシスティーナ礼拝堂の
壁画装飾事業はその中の1つです。
これを機に教皇シクストゥス4世は
フィレンツェから多くの芸術家を
招聘しました。
- ボッティチェリ
- ギルランダイオ
- コジモ・ロッセッリ
- ピエトロ・ペルジーノ
などの芸術家たちです。
また、後にサン・ピエトロ大聖堂の
改築・装飾事業を引き継いだ
教皇ユリウス2世の時には
- ミケランジェロ
- ラファエロ
- ドナト・ブラマンテ
などをフィレンツェから招いています。
このことはフィレンツェの芸術の精華が
ローマにもたらされたことを示しています。
サヴォナローラの院長就任
1490年にドメニコ会修道士の
ジローラモ・サヴォナローラが
サン・マルコ修道院の院長に就任します。
するとサヴォナローラは
メディチ家支配下の快楽的な風俗や政治を
きびしく糾弾しました。
これに市民たちは感激し、
支持を得ることに成功します。
また、支持を得た背景には
印刷技術の発展もあり、
フィレンツェの印刷業者は
サヴォナローラの著作を次々と印刷し、
広く民衆に届けられました。
このことはフィレンツェでの
芸術発展が滞る原因ともなりました。
- 生きた年代
→1452~1498年 - なにをした人?
→メディチ家支配下の風俗や政治を激しく糾弾した。豪華な工芸品や美術品を集めて焼き払う「虚栄の滅却」を行ったことでも有名
豪華王ロレンツォの死去
豪華王と呼ばれた
ロレンツォ・デ・メディチは
1469年に当主となり、
学芸庇護を展開させました。
彼は市民からも絶大な人気を博し、
フィレンツェの黄金時代を築きました。
しかし1492年に死去し、
黄金時代は幕を閉じます。
- 生きた年代
→1449~1492年 - なにをした人?
→学問や芸術のパトロンとしてフィレンツェ黄金時代を築いた。政治や外交能力にも優れていた人物
イタリア戦争勃発
1494年にフランス王シャルル8世が
ミラノに侵攻、イタリア戦争が勃発します。
この戦争はフランス王が
イタリア半島の掌握を目的に
軍事侵攻したものでした。
これらの出来事から芸術の中心は
フィレンツェからローマへと
移っていきました。
盛期ルネサンスの特徴
盛期ルネサンスでは
ローマ教皇をパトロンとして、
多くの芸術家たちが活躍しました。
絵画においては
ミケランジェロやラファエロが
ヴァチカンに描いたものが
頂点とされています。
ここからは
フィレンツェ黄金時代も含めた、
盛期ルネサンスの画家を解説します。
(ミケランジェロの作品は別の記事で)
サンドロ・ボッティチェリ
サンドロ・ボッティチェリは
古代以来途絶えていた大型の神話画を
復興した画家です。
↑の「春」は中央のヴィーナスが
花々の咲き乱れる春の世界を
支配している場面です。
↑の「ヴィーナスの誕生」はヴィーナスが
海の泡から生まれた場面を描いたもの。
春やヴィーナスの誕生はロレンツォの
又従妹の祝婚画として描かれたもので、
別荘の寝室に飾っていたとされています。
- 生きた年代
→1445~1510年 - 代表作
→春
→ヴィーナスの誕生など - なにをした人?
→古代以来途絶えていた大型の神話画を再興した - その他の記事
→ヴィーナスの誕生を解説
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ダヴィンチは光学や解剖学、人体比例、
遠近法、明暗法など科学的手法を探求し、
超人的才能を発揮した人物です。
↑は代表作の1つの「最後の晩餐」。
遠近法の消失点を
キリストの右こめかみに設定し、
使徒たちを3人1組にまとめることで
多様な動揺を求心的な構図で仕上げています。
世界で最も有名な美術作品と
いわれている「モナ・リザ」。
個人を記念する肖像画は
ルネサンス期に再興されたジャンルですが、
そこには個人を特定できる特徴や私物を
描くのが一般的です。
しかしこの作品には
この女性が誰なのかを示す特徴が
見られません。
さらにダヴィンチはこの作品を
生涯手元に残したと言われています。
作品にはダヴィンチの手腕が光る
スフマートや空気遠近法が用いられており、
今なお多くの鑑賞者を引き付ける作品です。
- 生きた年代
→1452~1519年 - 代表作
→モナ・リザ
→最後の晩餐など - なにをした人?
→多岐に渡り超人的才能を発揮した - その他の記事
→モナ・リザを解説
→モナ・リザはなぜ怖い?
ラファエロ・サンティ
盛期ルネサンスの精華ともいえるのが
ラファエロ・サンティが
ヴァチカン宮殿に描いたフレスコ画です。
署名の間と呼ばれる部屋でラファエロは、
8角形に分けられた天井と
側壁の4つの半円形区画に絵を描きました。
ラファエロは大規模な工房も経営しており、
短い生涯に多数の作品を制作しました。
そしてその多くの作品が
ヴァチカン宮殿に残されています。
また、ラファエロはダヴィンチや
ミケランジェロといった他の芸術家から
技術を吸収する能力に長けていました。
↑の作品はダヴィンチの
「聖アンナと聖母子」から影響を
受けています。
才能溢れるラファエロの作品からは
安定した構図に加え、
雄大な人間性を感じられます。
そしてこの様式は17世紀~19世紀にかけて
古典主義の絶対的規範となりました。
- 生きた年代
→1483~1520年頃 - 代表作
→署名の間の装飾
→キリストの変容など - なにをした人?
→才能溢れる画家で、短い生涯でありながら多くの名作を残した
ドナト・ブラマンテ
カトリック総本山の
サン・ピエトロ大聖堂の
初代建築主任だったドナト・ブラマンテ。
彼を有名にしたのはローマにある
サン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂の
テンピエットです。
テンピエットには初代キリスト教時代に
殉教地や聖地のモニュメントとして
使われた集中式プランが採用されています。
聖ペテロの殉教地を記念する建物に
円形の小神殿を選択したのは、
古代建築に関心を寄せていた
ブラマンテならではの発想でした。
- 生きた年代
→1444~1514年頃 - 代表作
→テンピエットなど - なにをした人?
→ローマで古代建築を復興させた人物
アンドレア・デル・サルト
最後は芸術の中心がローマに移った後の
フィレンツェで活躍した画家です。
サヴォナローラの説教の影響を受けた
アンドレア・デル・サルトは
穏健な古典主義芸術を展開しました。
↑の「アルピエの聖母」では
厳格な三角形構図とコントラポストで
彫像のような安定感を感じさせます。
色彩や表情も控えめです。
彼はマニエリスムの画家である
ヤコポ・ダ・ポントルモの
師でもあります。
- 生きた年代
→1486~1517年頃 - 代表作
→アルピエの聖母など - なにをした人?
→盛期ルネサンスのフィレンツェで厳格な古典絵画を描いた
まとめ
✓芸術の中心はローマへ
✓三大巨匠が活躍した
✓ラファエロは後世で
古典主義の絶対的規範となった
次回は盛期ルネサンスの後半、
ミケランジェロの作品を解説します。
→ローマ教皇がパトロンに
→サヴォナローラの出現
→豪華王ロレンツォの死