1918年に第1次世界大戦は終結しますが、
1930年頃にはナチスの台頭や
世界恐慌などで再び不安定な時期に入ります。
そして1939年に第2次世界大戦が勃発。
激しく変動する情勢の中で美術は
国の制御下に置かれたり、
弾圧されたりしました。
まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。
・シュルレアリスム⇒1924年~
⇩
・第2次世界大戦⇒1939年~
⇩
・抽象表現主義⇒1946年~
第2次世界大戦と美術
1910年頃のロシアでは
抽象主義のマレーヴィチなど、
ロシア・アヴァンギャルドを
新しい国家の芸術の担い手として
積極的に登用していました。
しかし1924年にレーニンが死去すると、
全体主義を目指すスターリンによって
前衛的な芸術は抑圧されていきます。
個人の権利や利益を国家全体の利害と一致するように統制を行う思想または政治体制
1930年代にスターリン政権は
「社会主義リアリズム」と呼ばれる、
民衆の意気を上げるために
写実的な芸術の必要性を唱え、
それを政府公認の唯一の表現としました。
政府は抵抗する芸術家を
監獄や強制労働を強いるなどし、
それによってカンディンスキーなど
ロシア出身の芸術家は
祖国を離れざるおえなくなりました。
抽象主義のマレーヴィチも当初は
社会主義リアリズムに抵抗しましたが、
逮捕・投獄されるに至ってからは
写実的な作品へと回帰しました。
ナチス・ドイツでの芸術政策
ヒトラー率いるナチスでも
ロシアと似た芸術政策がとられました。
国民の意思統一を目指し、
古典的で威厳に満ちた芸術を優先した
ナチスはアヴァンギャルド芸術を
排除しようとしました。
1937年にはキルヒナーの表現主義、
カンディンスキーらの抽象絵画などを
人間の精神の「退廃」を示すものとし、
ドイツ国内から追放します。
さらには各地で退廃芸術展を開催し、
アヴァンギャルド芸術を徹底的に
糾弾しました。
これによりドイツではナチスが倒れるまで、
芸術家が自由に作品を制作することが
出来なくなりました。
マティスとピカソ
第2次世界大戦勃発の翌年、
ナチスがパリを陥れた際には
多くの芸術家がアメリカに移住しました。
一方ヨーロッパに居続けた芸術家もおり、
その中にあのマティスとピカソがいます。
フォーヴィスム以降、
キュビスムを吸収する等の段階を経て
革新を続けていたマティスは晩年、
ヴァンスのロザリオ礼拝堂の装飾に
携わりました。
建築空間と色彩表現を統合し、
ステンドグラスによる色彩と
堂内の線描画を調和させた、
マティス晩年の最高傑作です。
ピカソはキュビスムの実験の後、
落ち着いた古典的な人物表現に
回帰します。
当時マティスや他の芸術家も
1度古典主義的傾向を示しており、
フランスを中心に起こったこの動きを
秩序への回帰と呼んでいます。
1937年にはゲルニカを制作。
ドイツによる無差別爆撃を
受けた年に制作された今作は、
20世紀を象徴する絵画とされています。
マティスとピカソ。
両名とも第2次世界大戦後まで活躍し、
20世紀を代表する巨匠となりました。
アンフォルメル
大戦が終結する1945年。
パリで「人質」と題された作品が
発表されました。
ジャン・フォートリエ(1898~1964)が
制作した人質は、
ナチス占領下で自由と尊厳が奪われ、
人ではなく物として扱われた
フランス国民に触発されたものと
されています。
そしてパリにはもう1人、
絵具の荒々しい質感や激しい筆致を
特徴とする芸術家がいました。
ジャン・デビュッフェ(1901~1985)です。
後に美術評論家はこれらの作品を
不定形を意味するアンフォルメルと名付け、
混沌として形が定まらない様子を
戦争下での極限状態の人々の精神とを
重ね合わせました。
まとめ
✓ロシア(ソビエト連邦)やドイツでは
国家が芸術を制御、弾圧したりした
✓ナチスではアヴァンギャルド芸術を
退廃芸術とし、徹底的に糾弾した
✓マティスやピカソは
戦争下でもヨーロッパに居続け、
20世紀を代表する巨匠となった
✓戦後近くにアンフォルメルが
生まれた
次回はニューヨークダダを解説します。
→アヴァンギャルド芸術は弾圧
→社会主義リアリズム
→ヨーロッパに居続けた
→第2次世界大戦後も活躍
→20世紀を代表する巨匠に
→不定形の意味
→戦後近くに生まれた