ルネサンス芸術は
ミケランジェロの活躍によって
16世紀前半に頂点へと達します。
15世紀末に完成された古典的理想美から
精神性を表出する芸術へと向かいました。
まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。
ミケランジェロの代表作や特徴
ミケランジェロは1475年に
フィレンツェ貴族の家系に生まれます。
幼少期に石工のもとに預けられ、
13歳でフィレンツェの画家である
ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りします。
その直後にメディチ家の彫刻庭園に通い始め、
豪華王ロレンツォが収集した古代彫刻を通して
芸術を学んでいきました。
加えてフィレンツェには
ジョットやマザッチョなど14・15世紀に
活躍した芸術家の作品が多く遺っており、
ミケランジェロは幼少期から古典芸術を
直接学ぶことのできる環境にいました。
- 生きた年代
→1448~1494年 - 代表作
→最後の晩餐
→東方三博士の礼拝など - なにをした人?
→ミケランジェロが最初に師事した画家。フィレンツェで人気を博し、システィーナ礼拝堂の壁画制作にも参加している
ピエタ
↑はミケランジェロ若き日の傑作です。
ピエタとは死して十字架から降ろされた
キリストを聖母マリアが抱きかかえる場面を
表現した彫刻や絵画のこと。
幼い頃から古典芸術を学んだ
ミケランジェロだからこその身体表現です。
ダヴィデ
ミケランジェロは1501年に
フィレンツェでダヴィデを彫る
仕事につきます。
ドナテッロなどは旧約聖書の記述に従って
ダヴィデを少年の姿で表現しました。
しかしミケランジェロは伝統的な図像を避け、
たくましい青年の姿でダヴィデの
英雄的な性格を表現しました。
さらにドナテッロのダヴィデが、
戦いに勝利を収めた瞬間の作品なのに対し、
ミケランジェロのダヴィデは
戦いを前にした瞬間を表現しており、
緊張感と勝利への意思を感じさせます。
システィーナ礼拝堂の天井装飾
ミケランジェロは1508年に
教皇ユリウス2世の依頼を受けて、
システィーナ礼拝堂の天井画を描き始めます。
天地創造や人類の創造と堕落、
ノアの箱舟など各々3つの場面をもって
9場面が描かれました。
天井の高さが20mあることを考慮して
白い背景に人物を大きく描き、
鑑賞者が見やすいように工夫されています。
また、各場面の仕切りには
トロンプ・ルイユを取り入れています。
ミケランジェロの描いた「ひねり」
ミケランジェロはダヴィンチよりも
23歳年下の芸術家です。
ダヴィンチは多岐に渡り才能を発揮し、
合理的・理想的な芸術を開花させました。
ミケランジェロは
そんな合理性を乗り越えるために、
あえて芸術家の主観的な人体表現や、
感情表現を研究しました。
具体的な特徴としては、
身体の引き伸ばしとひねりです。
↑の作品では10頭身以上に体を引き伸ばし、
ひねりを加えることで緊張感や
複雑で高度な精神性の表出へと繋げています。
このような彼の規範を破る行為は
自由と称賛され、
後のマニエリスムにも影響を与えました。
最後の審判
「最後の審判」は1533年に、
教皇クレメンス7世によって
制作を依頼されました。
ミケランジェロはそれまでの伝統とは違い、
キリストを髭のない若々しい姿で
描いています。
また、ミケランジェロの最後の審判は
左側の天国と右側の地獄が渦巻き状の
動きに沿って表現されています。
ディセーニョ
ミケランジェロの造形理論には
身体比例やひねりの他に、
ディセーニョという重要な概念があります。
16世紀のイタリアで特に注目を集めたのは
- ミケランジェロ
- ラファエロ・サンティ
でしたが前者はディセーニョ、
後者は優美さにおいて優れていると
称賛されました。
ディセーニョは本来、
素描を意味する言葉でしたが
16世紀になると芸術的意匠や、
創造理念そのものであるとみなされました。
後にフィレンツェでは
アカデミア・デル・ディセーニョという
素描アカデミーが創立されますが、
ディセーニョの価値を高める契機となったのが
まさにミケランジェロでした。
- 生きた年代
→1475~1564年 - 代表作
→ダヴィデ
→最後の審判など - なにをした人?
→西洋美術史のあらゆる分野に影響を与えた芸術家。万能の人とも呼ばれている - その他の記事
→「最後の審判」皮を剥がれた男のナゾ
まとめ
✓ミケランジェロは幼い頃から
古典的な人体表現を学んだ
✓ダヴィンチの合理性を越えるため、
あえて主観的な人体表現を追求した
✓作品の特徴に人体比例とひねりがある
✓ディセーニョの価値を高めた芸術家
次回はヴェネツィア美術を解説します。
→ミケランジェロによって頂点へ
→人体比例とひねり
→マニエリスムにも影響
→本来は素描の意味
→16世紀に創造理念へ