どうも、MOTOです。
現代では推しという言葉が日常の中に深く入り込んでいます。アイドル、俳優、アニメキャラクター、配信者、スポーツ選手。人は誰かを推すことで、生きる活力を得るようになりました。
それ自体は決して悪いことではなく、誰かに憧れ、心を動かされることは、人間の自然な感情です。しかし時々、私は推し文化の中に宗教とよく似た構造があるなと感じるようになりました。
もちろん、推し活そのものを否定したいわけではありません。ただ、人間が「何かを信じる時」に生まれる熱量や危うさは、時代が変わっても本質的にはあまり変わらないのかもしれません。
今回はそんなテーマのお話。
推し文化と宗教性

宗教画を見ていると、
その感覚がよく分かります。
中世ヨーロッパでは、多くの人が識字能力を持っていませんでした。ですから絵画は、神の存在を伝えるための“視覚装置”でもありました。
荘厳な光
天から差し込む神秘的な構図
こちらを真っ直ぐ見つめる聖人たち
それらは単なる装飾ではなく、人々の感情を動かし、「信じる」という行為へ導く力を持っていました。

時が経ち現代。多くの人にとって宗教は身近なものではなくなりました。
しかしそれは本当でしょうか。SNSを開けば、絶えず誰かの“神格化”が起きています。推しの発言は拡散され、些細な言葉に意味が与えられます。批判する者は敵とみなされ、コミュニティの内部では独自の倫理観が形成されていく。
そこには、かつて宗教共同体が持っていた構造と似たものがあるように感じます。
人は孤独に耐え続けることが難しい生き物です。だからこそ共通の対象を愛し、同じ熱量を持つ人々と繋がろうとする。それはある意味、とても人間らしい行為です。
推し文化の背景

推し文化がここまで広がった背景には、現代社会の関係性の希薄さもあるように思います。
昔は地域共同体や家族、宗教が人の居場所になっていました。しかし現代では、それらが徐々に弱くなっています。そしてその空白を埋めるように、“推し”が心の拠り所になっています。
実際、推しの存在によって救われた人は多いでしょう。

私は職業柄、引き篭もりの人や社会との関わりが薄い人のご自宅へ伺います。そんな現場でも「推し活」の場を見ることは少なくありません。
信じる力の危うさ

生きる理由を見失いかけた時、誰かの歌や言葉に支えられることは確かにあります。
芸術にも、本来そういう側面があります。
ゴッホの絵に孤独を感じる人
モネの光に安堵する人
ムンクの《叫び》に、自分の不安を重ねる人
人は作品の中に自分自身を見ているのです。しかしその一方で「信じる力」が強くなりすぎた時、人はいとも簡単に思考を手放してしまうことがあります。
- 推しが勧めるものを無条件に肯定する
- コミュニティの空気に逆らえなくなる
- 自分の考えより“推しを守ること”を優先する
そこには、偶像崇拝に近い危うさも存在するのではないでしょうか。
イメージ信仰

ルネサンス以降の西洋絵画では、人間そのものが神に近づいていく表現も増えていきました。
完全な肉体。理想化された顔。崇高な人格。それは神を描いているようでありながら、同時に「人間を神格化する欲望」を描いていたとも言えるかもしれません。
注)ギリシャ時代には「神は人と同じ姿をしている」という神人同形説が存在していたので、「人間そのものが神に近づいていく」という表現は適切でない可能性がありますが、この文脈では便宜上そのように扱わせてもらいます。読み手のリテラシーを頼りにさせてもらいます。
現代のSNSもそれに近いものがあります。私たちは画面越しに、“編集された人格”を見ています。本当の人間ではなく、理想化されたイメージを消費していることも多いのです。
そして時に、そのイメージを信仰します。
しかし本来の芸術は、思考停止のために存在していたわけではないはずです。
自分との対話

美術館で1枚の絵を見る時、
本来そこには「対話」があります。
なぜこの絵に惹かれるのか。
なぜ不安になるのか。
なぜ美しいと思うのか。
芸術は本来、
自分自身を知る行為に近いのです。
だから私は推しを持つこと自体よりも「自分がなぜそこまで惹かれているのか」を見つめることの方が大切なのだと思います。
人は誰かを信じる。
そして、何かに救われながら生きている。
それはきっと、昔も今も変わりません。
ただ、その対象に飲み込まれるのではこなく、時々少し距離を取りながら、自分の感情を見つめ直すこと。その余白を持つことが、現代では以前よりも必要になっているのかもしれません。






