この記事は
山田五郎さんのYoutubeチャンネルである
「山田五郎オトナの教養講座」より、
動画の内容を文字に起こして
解説していくものです。
第7回目のタイトルは
【「日傘をさす女」消えた少年】
今回はモネの有名な作品に
ついてです。
まだ動画をみてない方は
是非ご覧になって下さい。
文字の方が理解しやすい方は
ぜひ最後までお付き合いください。
「日傘をさす女」消えた少年
「散歩、日傘をさす女性」は
印象派を代表する画家、
モネによって1875年に制作されました。
その11年後にモネは
同じような構図を用いて
2つの習作を描いています。
ここで1つ気になる点があります。
それは最初の作品では
傘をさしている女性の近くに
男の子らしき人物がいるのに対し、
あとに制作されたものには
その姿がありません。
一体、男の子はどうして消えたのか?
それが今回のテーマです。
まず描かれている人物ですが、
日傘をさす女性はモネの妻である
カミーユで、男の子は息子のジャンです。
この作品は別名
「日傘の女性、モネ夫人と息子」
ともいわれています。
クロード・モネは1866年、
自身が26歳の時にカミーユと同棲し
翌年に子供を授かっています。
ところがモネの父親は
2人の結婚に反対でした。
当時のモネは売れない貧乏画家で
親から仕送りをもらっていましたが、
結婚反対を機に仕送りを止められてしまいます。
子供を授かったものの
更に貧困に苦しむことになったモネは、
1868年に自殺未遂までしてしまいます。
その後、家族を連れてパリの北の外れにある
アルジャントゥイユに引っ越したモネは
貧しいながらも懸命に活動を続けました。
そして1874年には
後の「印象派展」とよばれる
画家たち自ら主催した
グループ展を開催しました。
今回のテーマである
「散歩、日傘をさす女性」も
アルジャン時代の作品です。
風景画のイメージが強いモネですが、
アルジャン時代には人物画も多く
手掛けています。
ジャポニズムとよばれる
日本ブームがあった時期の印象派展には、
カミーユにコスプレをさせた作品を
出品しています。
レンブラントの回で話していた
夫婦ラブラブの証です。
今回の作品も第2回印象派展に
出品されたものです。
ところがこの3年後、
借金が更に増えて
家賃も払えなくなったモネは
アルジャンよりもさらに北の
ヴェトゥイユという地に移ります。
そしてこの頃からカミーユは
病気がちになっていきます。
モネの人生の激変
モネの人生はここから
大きく変わっていくことになります。
まずは貧困で住む家も変わり、
妻も病気がちなこの大変な時期に
7人の大家族が転がり込んできたことです。
ことの発端は第1回印象派展で
印象派とよばれる原因ともなった作品、
「印象・日の出」を購入した
パトロンであるオシュデが破産してしまい、
国外逃亡したことから始まります。
彼には妻と6人の子供がいたのですが、
残されてしまった7人はモネを頼って
ヴェトゥイユの家にやってくるのです。
モネにとっては大迷惑な話ですが、
なぜかモネはその7人を受け入れました。
そしてカミーユは次男を出産後、
32歳で亡くなります。
オシュデの家族である7人は
カミーユが死去した後も
モネの家に居座り続け、
モネは広い家を求めて今度は
パリから更に遠いジヴェルニーに
引っ越します。
その後オシュデが亡くなると、
モネはオシュデの妻であったアリスと
1892年に再婚しました。
最初の作品から11年後に描かれた2枚は
アリスの連れ子のシュザンヌという娘を
モデルにしたといわれています。
つまり最初の作品とモデルが違うわけです。
最初の作品と違うところ
最初の作品で描かれていた息子のジャンは
シュザンヌをモデルにした作品を
描いた頃には20歳近くになっています。
それが理由で後の作品には描かれていない
ことが考えられますが、山田さんは
それより気になることがあると語ります。
それは女性の顔についてです。
カミーユをモデルにした作品では
女性の顔がわかるように描かれています。
ところがシュザンヌを
モデルにした2枚は顔がわかりません。
山田さんはこのことの方が
少年がいないことより重要じゃないか
というのです。
女の顔を描かなかった秘密
ここからは山田さんの
個人的に考えた話です。
シュザンヌをモデルにした作品を
描いていた頃というのは、
カミーユが亡くなり、アリスとその子供との
同棲が始まって7年程が経ったときです。
新たな生活にも慣れ、モネも
「俺にはもうこの生き方しかない」と
悟ったのではないかと山田さんはいいます。
そんな時にかつての貧しいながらも幸せだった
「散歩、日傘をさす女性」と同じ構図を使って
2枚を描こうと思った背景には
幸せの上書きがあったのではないかと。
つまりはモネの心の上書きです。
これからはアリスやその子供たちと
新たな幸せの形を築いていこうとする決意を
制作をとおして行おうとしたのです。
ところがいざ、
制作を始めるとカミーユの面影が
浮かんでしまい顔が描けなかった。
しかもモネはこの作品を最後に
人物画を描かなくなったそうです。
それからのモネは連作として
知られている季節や時間を変えた
風景画を手掛けるようになります。
最も有名なのは「睡蓮」でしょうか。
この睡蓮シリーズは
全部で200枚以上
あるとされています。
哀しきモネの内面
ここで山田さんは
これまで出てきた疑問を
1度整理しようと話されます。
ここまでで疑問が残るのは以下の点です。
- アリスと6人の子供たちは
なぜモネを頼ったのか? - なぜモネはカミーユの死後、もう1度「日傘をさす女性」を描いたのか?
- なぜ「睡蓮」ばかりを
描き続けたのか?
その3つの疑問の答えが
1枚の写真にあるそうです。
その写真がこちら。
この写真にはモネとアリス、
そして子供たちも一緒に
写っています。
山田さんはこの中にいる2人の
子供に注目しています。
それがこの2人です↓
アリスの側にいる2人の男の子です。
アリスの下にいる子供は
カミーユとの間にできた次男のミシェル。
アリスの奥にいる子供は
アリスの連れ子のジャン=ピエール。
この2人の子供は本来、
血の繋がりがないはずです。
ところがなんだか似ているように見えます。
これは一体…
そうです。
モネはオシュデの妻のアリスと
不倫関係にあり、ジャンはアリス
との間にできた子供だったのです。
モネは1876年の夏、
カミーユが病気がちだった頃に
オシュデの邸宅を飾る絵や室内装飾の
仕事を頼まれました。
それから2カ月の間、
オシュデの邸宅に寝泊まりしていた
モネはアリスと不倫関係になり、
ジャンを出産したといわれています。
そうすると
アリスがモネを頼ってきた理由も
わかる気がします。
(モネが断らなかった理由も)
加えてその後カミーユは次男を
出産して亡くなってしまうのですから、
モネには罪の意識があったのでしょう。
カミーユとの間にできた2人の子供に加え
アリスとの間にできたジャン、
そして他の連れ子と共に生きていくしかない、
幸せになるしかないと決意したモネは
幸せの上書きを行おうとしたのです。
それがこの作品を描いた
理由ではないかと山田さんは説明します。
睡蓮ってどんな花?
人物画をやめた後に
モネが生涯描き続けた睡蓮の花。
東洋において睡蓮がどういう
意味をもつ花かご存知でしょうか?
答えは極楽浄土。
仏教ではよく如来や観音像と共に
蓮の花をあしらっています。
ジャポニズムの影響を受けたモネも
当然そのことを知っていたのです。
モネが睡蓮の絵を200枚以上も
描いた理由がここにあります。
亡き妻の鎮魂を祈り、
自らに課した写経のようなものでは
なかったのかと。
終盤に山田さんは
そのように語っていました。
妻への罪の意識が顔を描くことを拒んだ
まとめ
✓最初の絵から11年後に
描いた作品はモデルが違う
✓11年の間に不倫や同棲、
妻の死があった
✓睡蓮は亡き妻へ捧げる鎮魂の絵
今回はモネの作品についてでした。
有名な画家や作品なだけに
さまざまな背景を知ると絵の見え方が
全く変わってきますね。
次回はエドガー・ドガの作品についてです。
→最初は1875年制作のもの
→その他に2つの習作がある
→亡き妻の鎮魂を祈った