この記事はYoutubeチャンネル
「山田五郎オトナの教養講座」より、
内容を文字にして解説していくものです。
第12回目のタイトルは
【なんで落ちた穂を拾っているの?】
今回はミレーの落穂拾いについてです。
まだ動画をみてない方は
是非ご覧になって下さい。
文字の方が理解しやすい方は
ぜひ最後までお付き合いください。
なんで落ちた穂を拾っているの?

ミレーの代表作である「落穂拾い」。
あなたは作品中央の女性たちが
なぜ落ちた穂を拾っているのか
知っていますか?

後方には麦の山と
男性らしき人物も見えます。
実は手前の女性たちは、
夫が病気で働けなかったり、
未亡人で貧しい女性たちです。
そして奥の男性たちは麦を刈り取る際、
貧しい人のためにわざと穂を落としており、
現在でもフランスの風習となっています。

起源は旧約聖書ルツ記の話です。
ルツと呼ばれる未亡人の女性が
古代パレスチナの貧しい人には落穂を拾う
権利があるという法律のもと、
一生懸命に落穂を拾っているとそこの地主の
目にかかり、結婚をするという内容です。
そこから貧しい人を救う、
キリスト教的な道徳になりました。
ですのでミレーのこの作品は、
宗教画的なメッセージもあるのです。
バルビゾン派とは?

1830年頃から数人の画家がパリ郊外にある
フォンティーヌブローの森のはずれの
バルビゾンという村に住みつきます。
そこで風景画などを描いた画家たちを
バルビゾン派と呼んでいます。
そしてミレーもその一員で、
農民画家としてよく知られています。

有名なゴッホはミレーのような
農民画家になりたいと思い、
迷惑がられながらも農民の姿を
描いていたというエピソードもあります。
しかしここで山田さんは
「実はミレーは農民画家志望ではない」
と話されます。
そしてそこが今回の話の
ポイントでもあるようです。
ミレーが農民画家になった理由

ジャン=フランソワ・ミレーは
フランスのノルマンディ地方の出身で、
農家出身ですが土地を所有している農家で
そこそこ裕福でした。
ミレーは長男でしたが跡継ぎにはならず、
画家を目指し国立美術学校に入学します。
そこでポール・ドラローシュから
絵を学びました。

ポール・ドラローシュは
レディ・ジェーン・グレイの処刑を
描いたことでも有名な画家です。
そして代表作でもわかるように、
彼は歴史画家でした。
そんな彼から絵を学んだミレーは自身も
歴史画家になることを望んでいました。

しかしミレーは画家の登竜門である
ローマ賞に応募するも落選。
その後間もなく美術学校を辞めます。
学校を辞めた後はお金を得るために、
肖像画家としての活動を開始しました。

そして肖像画の次は裸婦画を描いたりと、
歴史画家になりたい気持ちはあれど
生活のために違うジャンルの絵を描く
日々が続きました。
ミレーがバルビゾン派の画家たちと
出会ったのもちょうどこの時期になります。
そして1848年、
この年のサロンでミレーの作品が
注目を浴びることになります。
それがこの作品です。

従来のサロンでは厳格な歴史画などが
評価を得ていたのですが、
この年はフランス2月革命が起きて
労働者の時代に変わっていました。
加えての作中男性の帽子の赤、
衣服の白、ズボンの青が
フランスのトリコロールと呼応し、
非常に高い評価を得たのでした。

ミレーはこの年のサロンを機に
国から絵の注文を受けたりと、
農民画家として有名になります。
しかし本人からすれば
予想外の出来事でもありました。
あくまでミレーは歴史画家としての
活動を希望していたからです。

その後フランスは
ナポレオン3世のもと第二帝政が始まり、
再び保守的な美術が好まれる時期に入ります。
(ミレーにとっては好都合)
1853年のサロンにミレーは
次のような作品を出品しました。

旧約聖書ルツ記の内容を
そのまま描いた作品です。
そのまま表現しているので、
ジャンルとしては歴史画になります。
ミレーが描きたいものに近い作品ですが、
今度は農民画家としてのミレーを
支持する人々から批判をうける
事態になってしまいます。
板挟みの結果…

そんな板挟みの状況で
描いたのが今回の作品です。
ミレーは聖書の内容をそのままではなく、
聖書+現実の農民を
合わせて描いたのでした。

ミレーの作品は
当時のアメリカでも人気を博し、
農民画家としてのミレーの
人気は強まる一方でした。
そしてアメリカからの注文で
描いたのが次の作品です。

落穂拾いと同様、
ミレーの代表作ともいえる作品です。
教会の鐘がなり、
今日の仕事の終わりに
祈りを捧げる夫婦を描いています。
悲しい作品ではないのですが、
この絵を見て怖がる人が多いと
山田さんはいいます。

またシュルレアリスムで有名な
サルバドール・ダリも
この晩鐘を怖がった人物だそうです。
ダリは夫婦の足元にある籠に
「子供の死体がある」と言い、
トラウマ的な作品だったといいます。
晩鐘の値段

晩鐘はアメリカ人の注文で
描かれましたが、
注文主は引き取りにきませんでした。
1860年、
ミレーは仕方なく別のフランス人に
この絵を1000フランで売却します。
絵は持ち主を転々とし、
1872年にとある画商が
この絵を売却した時には
3万8000フランに値が跳ね上がっていました。
さらにミレーが亡くなった後の1889年、
オークションにこの絵がかかると
フランスとアメリカの競り合いで
値はますます跳ね上がり、
最終的にはフランスが
55万3000フランで落札しました。
ところが思わぬ予算に
フランス議会が購入を反対し、
結局はアメリカの手に渡ります。
すると今度は1890年、
フランスの大富豪がアメリカから
絵を80万フランで買い戻しました。
(現在はオルセー美術館が所蔵)

このことからも本人の意志とは裏腹に、
農民画家としてのミレーの方が
人気だったといえます。
終盤に山田さんはミレーの教訓として
人は自分が思った評価を
得られるものではない
と語っていました。
まとめ

✓落穂拾いは旧約聖書ルツ記が題材
✓ミレーは歴史画家になりたかったが、
農民画家としての人気が大きかった
✓晩鐘はアメリカ人が注文し、
その後値が跳ね上がった作品
今回は農民画家としてのレッテルを
貼られたミレーのお話でした。
自分のやりたかったことと、
周囲が求めたもののギャップに
ミレーは苦しんだのか。
それとも一定の評価は得られたの
だからある程度満足していたのか。
どちらにせよ、
面白いエピソードでした。
次回はセザンヌの作品についてです。
→旧約聖書ルツ記の話
→周囲とのギャップ
→最終的に80万フランの値がついた