20世紀を代表する革新的な芸術運動に
キュビスムがあります。
キュビスムの特徴は、
1つの絵画作品の中にいくつもの視点から
とらえた空間のようすを描いたことです。
また、キュビスム誕生の後には
未来派とよばれる前衛芸術運動も
始まりました。
まずはこの時代の代表作の
画像を確認していきましょう。
✓キュビスム
⇒1907~
✓未来派
⇒1909~1924年頃
✓抽象美術
⇒1910年頃~
キュビスムの特徴
ある対象を取り巻く空間のようすを
さまざまな角度から見て、それを1つの
画面にまとめながら描く。
それがキュビスムの特徴ですが、
それは「写実」を目指すルネサンス以降の
伝統的絵画とは根本から異なりました。
しかし、私たちが普段見ている空間は
全て3次元的であり、それを正確に
把握しようとするキュビスムは
必ずしも「写実的ではない」とは
言い切れないかもしれません。
パブロ・ピカソ
この方法を始めたのは当時パリにいた
若い画家たちでした。
とくに1907年に制作された
パブロ・ピカソ(1881~1973)の
「アヴィニョンの娘たち」は重要です。
この作品はキュビスム初期の頃の
作品ですが、ピカソがキュビスムの
初期段階に入っていったのには
あるキッカケがあったといわれています。
以下の2つです↓
- プリミティブな美術との出会い
- セザンヌの影響
プリミティブとは「原始的」や
「非西洋的」といった意味合いがあります。
それまでの西洋の伝統が
「写実」や「自然の模倣」だとすれば、
アフリカやオセアニアで制作された美術には
それらへのこだわり・制限といったものが
全くなく、逆にそれがヨーロッパ圏の
芸術家たちの大きな刺激となったのでした。
ピカソもそんなプリミティブな美術に
注目した人物の1人です。
アヴィニョンの娘たちと前後して、
ピカソは数多くの人体や頭部を
プリミティブな美術からの影響を受けて
描いていたことがわかっています。
2つ目はセザンヌからの影響です。
ポスト印象派の1人とされている
ポール・セザンヌは複数の視点から
見たものを1つの画面に描いた作品を
残しています。
そうした経緯を経てピカソは
アヴィニョンの娘たちを完成させますが
当時その作品を評価する仲間はほとんど
いませんでした。
ジョルジュ・ブラック
キュビスムの誕生に関わる
もう1人の画家は
ジョルジュ・ブラック(1882~1963)です。
ブラックもピカソのアヴィニョンの娘たちを
見ることができた画家仲間でしたが、
彼はピカソのその意義をすぐには
理解できずとも、斬新な方法に衝撃を
受けていました。
その後、南フランスのレスタックに赴いた
ブラックは一連の風景画を描きます。
これらの作品はパリで発表されますが、
批評家の1人に「風景や家をキューブに
してしまっている」と批判されます。
このことがキュビスムという名がついた
発端といわれています。
ロベール・ドローネー
ピカソ、ブラックによって始まった
キュビスムに衝撃を受けて、
その方法を応用した人物が
ロベール・ドローネー(1885~1941)です。
先の2人が人物や郊外の風景、静物に興味を
示したのに対し、ドローネーはパリの風景を
テーマに選びました。
高層な建築が並ぶ街を
人々が速度を上げて行き交う。
ドローネーはそんな20世紀初頭に
現れた風景を、時間や視点を組み替えて
描くキュビスムにうってつけだと
感じたのでした。
未来派の美術
20世紀初頭の急速に変化していく
都市・社会のなかで野心的な芸術運動が
イタリアで生まれました。
1909年に詩人マリネッティによって
発表された未来派宣言により
誕生したのが未来派です。
未来派のテーマは過去の芸術の徹底的破壊、
機械化により実現された近代社会の速さです。
それらを彼らはキュビスムを応用した方法で
作品化しました。
未来派宣言の中には彼らの芸術運動の
主旨をよく示している言葉があります。
「機械掃射のなかを疾走する自動車は、
サモトラケのニケより美しい」
そして未来派宣言の5年後、
第一次世界大戦が勃発。
機械掃射は現実の風景となるのです。
まとめ
✓さまざまな視点を組み合わせて描くのがキュビスム
✓ピカソ、ブラックから始まり様々な表現に応用された
✓未来派のテーマは過去の芸術の破壊、機械化された近代社会の速さ
次回は抽象絵画を解説します。
✓さまざまな視点を1つに組み合わせる
✓新しい表現は様々なものに応用された
✓近代の速さや重さを表現した未来派