エゴン・シーレ(1890~1918)は
オーストリアの画家です。
彼は当時盛んだったクリムトらの
ウィーン分離派を初めとして象徴派、
表現主義に影響を受けつつも、
独自の絵画を追求しました。
この記事では
エゴン・シーレの生い立ちや
代表作品を紹介します。
エゴン・シーレとは
![](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/02/Egon-schiele-1-237x300.jpg)
名前
エゴン・シーレ
生誕
1890年6月12日
死没
1918年10月31日
運動・動向
象徴派・ウィーン分離派
代表作
「死と乙女」
「胎児と女」
「自画像」
「裸体の女」など
エゴン・シーレはオーストリアの
首都ウィーン近郊の町で生まれました。
シーレ家はオーストリアで圧倒的だった
ローマ・カトリック教会ではなく、
少数派のルター派福音主義教会に
属していました。
幼少期にシーレは初等教育を受ける為に
クロスターノイブルク市へ移住、
そこで出会った美術教員から
早熟な才能を認められたといわれています。
15歳の時には父親が梅毒により他界。
その後、叔父に引き取られます。
叔父はシーレが学業に励まないことを
悩むと同時に、彼の芸術への強い興味に
理解を示すなどして愛情を持って接しました。
クリムトと同じ工芸学校へ
![グスタフ・クリムト](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2022/06/376px-Klimt-1-235x300.jpg)
16歳の時にシーレは
グスタフ・クリムトと同じ
ウィーン工芸学校で学び始めます。
クリムトは学校を卒業後に
職工として開業しましたが、
シーレはアカデミック色の強い美術を
学ぶ場であったウィーン美術学校へ
進学することにします。
シーレがウィーンの学校に入学した翌年、翌々年にはあのアドルフ・ヒトラーが同学校を受験。不合格となっている
クリムトの弟子に
ウィーン美術学校では保守的な
古典美術を教えられましたが、
そこに魅力を感じなかったシーレ。
次第に彼は学校を離れて
工芸学校時代の先輩であるクリムトに
弟子入りを志願します。
![マリア・シーレ](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/528px-Schiele_-_Bildnis_Marie_Schiele_mit_Pelzkragen_-_1907-1-220x300.jpg)
シーレとクリムトの作風は
必ずしも同じ路線ではありませんでした。
しかしクリムトはシーレのことを
大いに気に入り、とても可愛がったそうです。
まだ貧しかったシーレを経済的に支えたり、
象徴主義や表現主義の画家が集まる
ウィーン工房にシーレの入会を
推薦したりしました。
そして1908年にシーレは
初の個展を開きます。
![Neukunstgruppe](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/635px-Anton_Faistauer_-_Plakat_-_1909-1-176x300.jpeg)
その翌年には正式に美術学校を退校し、
同時に美術学校を離脱した仲間達と
Neukunstgruppe(新たなる芸術の集い)を
結成します。
本格的に独自の活動を開始したシーレに
衝撃を与えたのは、クリムトが開催した
「フランス印象派の絵画展」に出品されていた
ゴッホやムンクなどの作品でした。
独自の活動
![アントン・ペシュカ](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/649px-Portrait_of_painter_Anton_Peschka_by_Egon_Schiele-1-270x300.jpg)
展覧会の刺激で創作意欲に
駆られたシーレは精力的に試作を繰り返し、
時に性などタブー視されていた部分も
作品に取り込もうとします。
死や性行為など倫理的に避けられるテーマを
むしろ強調するような作品を制作したのです。
![胎児と女](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/Egon_Schiele_Woman_with_Homunculus_1910.-1-230x300.jpg)
この頃のシーレは娼婦を家に招き入れて
ヌードモデルにしたり、
下町の子供を誘い込んでモデルにしたり、
庭で女性を裸にしてデッサンを描くなどを
繰り返します。
それが原因で近隣住民に目を付けられ、
住んでいた町を追い出されるといったことを
何度か繰り返しました。
エーディトとの結婚
![](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/Egon_Schiele_und_Edith_Harms-1-300x234.jpg)
1914年、ウィーンに戻ったシーレは
中産階級職人の娘だったエーディトと
結婚します。
ところがシーレはエーディトの姉にあたる
アデーレという女性とも親密な関係に
あったようです。
![緑のストッキングで横たわる女](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/reclining-woman-with-green-stockings-adele-harms-1917Large-1-300x187.jpg)
アデーレをモデルにした作品も
残っています。
この時期にアデーレはシーレと
肉体関係にあったことを告白しています。
従軍、そして死
![従軍中のスケッチ](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/486px-Schiele_-_Osterreichischer_Soldat_mit_Pfeife_-_1915-1-203x300.jpg)
第一次世界大戦が勃発すると
24歳のシーレは軍に召集をされます。
制作活動も中止となりましたが、
芸術家を尊重して軍は彼を前線勤務に
就かせなかったりと、配慮もありました。
その中で彼は戦争という経験の中での
作品構想を膨らませていきました。
そして1917年、首都ウィーンに転属すると
作品制作を再開できるようになり、
暖めていたアイデアの制作に打ち込みました。
![家族](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/508px-Egon_Schiele_-_Kauerndes_Menschenpaar_Die_Familie_-_4277_-_Osterreichische_Galerie_Belvedere-1-300x283.jpg)
1918年、第一次世界大戦も終盤になると
シーレはクリムトが開いたウィーン分離派展に
50点以上の新作を一挙に発表し、
一躍注目を集めます。
これを機に彼の作品の価格は上昇し、
次々と買取依頼が舞い込むようになります。
同年7月、高級住宅地にアトリエを構えて
成功画家としての1歩を踏み出した彼でしたが
妻エーディトがスペイン風邪を患い、
シーレの子供を宿したまま10月28日に死去。
そしてシーレも同じ病に倒れて
妻を追うように10月31日に亡くなりました。
その他の代表作
![自画像](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/597px-Egon_Schiele_079-1-300x241.jpg)
![自画像](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/525px-Egon_Schiele_075-1-205x300.jpg)
![死と乙女](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/Egon_Schiele_012-1-300x252.jpg)
![裸体の女](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/03/640px-Egon_Schiele_044-1-300x186.jpg)
まとめ
![](https://arttayousei.online/wp-content/uploads/2023/02/Egon-schiele-1-237x300.jpg)
✓早熟な才能を認められていたシーレ
✓クリムトと交流があった
✓死や性行為をテーマにした作品も描いた
わずか28年という短い生涯だったシーレ。
しかしその生涯の中でも
ウィーン美術学校では満足せずに
独自の活動を始めるなど、
当時の常識にとらわれない制作活動で
後世に影響を与えました。
最後は彼の残した言葉で
締めたいと思います。
偉大な世界観を獲得するためには、
ナイーブで純粋な目で世界を観察し、
経験する必要がある。
最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。
✓クリムトの後輩だったシーレ
✓タブー視されていたテーマを描いた
✓女性関係のトラブルも