330年に皇帝コンスタンティヌス1世は
ローマの首都をビザンティウム
に移します。
392年にキリスト教は国教となり、
395年にローマは東西に分かれて
分担統治が始まります。
それに伴って美術様式も
東西で異なって発展していきました。
今回は東ローマ帝国で発展した
美術を解説していきます。
まずはこの時代の作品の
画像を確認していきましょう。
ビザンティン美術の特徴
ビザンティン美術は地中海周辺に広く普及し、
壁画やイコンが多く描かれました。
しかしキリスト教が母体とする
ユダヤ教は偶像崇拝を禁止しており、
神を人間が形にするのは不可能である
という思想が根強く存在しました。
ですので、
- 偶像崇拝を禁じるユダヤ教的伝統
- ギリシャの神々を彫刻にして
崇拝した地中海の伝統
相反する2つの伝統が混じっているのが
ビザンティン美術の特徴です。
ただし、丸彫り彫刻や3次元的な表現は
偶像崇拝にあたるとして避けられ、
平面的かつ観念的な表現となりました。
また、8世紀初頭には聖像をめぐる
激しい論争も巻き起こりました。
この記事で解説する
ビザンティン美術の大まかな流れは、
- イコンなどが描かれる
- 聖堂建築、モザイク画
- 聖像破壊運動が勃発
- マンディリオン
となります。
順に解説していきます。
キリストのイコン
キリスト教のイコンは、
ローマ皇帝の肖像崇拝に刺激を受けつつ
誕生したものです。
↑のイコンはアギア・エカテリニ修道院に
保存されている最古のイコンです。
今作は蜜蠟画と呼ばれ、
蜂が分泌するロウで制作されています。
ローマのポンペイ壁画と同じ技法です。
アギア・ソフィア大聖堂
アギア・ソフィア大聖堂は
ビザンティン美術を代表する建築です。
4世紀に建築後、2度の大火事に見舞われて
537年にユスティニアヌス1世が再建しました。
初期キリスト教美術の
バシリカ式と集中式を合わせたような、
ドーム式バシリカという
建築様式が採用されています。
しかしこの様式は
高度な技術を必要としたので
あまり普及はしませんでした。
結果的に、空前絶後の斬新な
工法となっています。
サン・ヴィターレ聖堂とモザイク
サン・ヴィターレ聖堂は
八角形の集中式プランと豪華なモザイクで
この時代の黄金時代を代表しています。
↑はサン・ヴィターレ聖堂にある
モザイク画です。
重要な人物は中央に大きく描かれます。
また、左右対称かつ平面的な様式で
精神性や超越性を感じさせる
作りになっています。
↑はアプシスにあるモザイクです。
中央に髭のない若いキリストが
描かれています。
儀式的で厳かな雰囲気、
金の多用によりビザンティン宮廷の
権威と趣味が反映されています。
聖像論争
聖像論争の発端は、
西アジアに起こったイスラム教でした。
イスラム教は偶像崇拝を
徹底して禁止していたことから、
キリスト教を厳しく批判しました。
その影響を受け、ビザンティン帝国内でも
偶像崇拝を禁止する動きが高まり、
聖職者の中で大きな論争となります。
ちなみに偶像破壊派と擁護派、
お互いにこのような意見があったそうです。
この論争は聖像破壊運動を勃発させ、
726年~843年までの約100年間
聖像は禁止されると共に、
多くの聖像が破壊されました。
マンディリオン
マンディリオンとは
キリストの顔を写した布のことです。
キリストが水で洗った顔を拭った布に
その肖像が写し出されたとする
神話がもとになっており、
「人の手で制作されたものではない」という
性格を持っているマンディリオンは
偶像擁護派の強い武器となりました。
まとめ
✓ユダヤ教と地中海の相反する伝統が
入り混じったのがビザンティン美術
✓丸彫り彫刻や3次元的表現は✕、
平面的かつ観念的な表現へ
✓聖像破壊運動が勃発すると
多くの聖像が破壊された
次回は初期中世美術を解説します。
→3次元的な表現は偶像崇拝にあたる
→アギア・ソフィア大聖堂
→皇帝ユスティニアヌス一世
→多くの聖像が破壊された
→マンディリオン